現象の奥へ

『リチャード・ジュエル』──映画はなにを描くべきか(★★★★★)

『リチャード・ジュエル』(クリント・イーストウッド監督、2019年、原題『RICHARD JEWELL』)

 映画はなにを描くべきか。もちろん、「なんでも」監督の好きなものを描けばいい。しかし、やすやすと人を殺してしまうような映画に、あまりにも感情移入してはいまいか? 面白ければ、どんな殺戮を描いても手を打って笑い転げ、満足するような観客には、薄気味悪さしか感じない。面白いか、面白くないか。では、その面白いとは、「あなた」にとってどんなことなのか? 自分は安楽に暗闇の椅子に座っていて、さあ、殺戮でもなんでも、面白いものを見せてくれ、か?
 本作も人の興味を引く内容ではある。しかし、大騒ぎや派手さを狙った面白さではない。ここでは、ひとはいかに偏見を持ち、かつその偏見に翻弄されていくかが、ていねいに描かれ、その内容は、本を読んだり、グーグルで調べたぐらいでは「見えない」。その「見えない」ものを明るみに出す。
 タイトル・ロールのリチャード・ジュエル。まず、風貌でかなり損をしているタイプ。許しがたいほどに太っている。脂のかたまり。マザコン。権力についお追従を言ってしまう。ただの警備員ながら、警察のように振る舞ってしまう。警察へのあこがれ。あまりにも、その方面の本を読みすぎ、知識がある。銃器をたくさん持っている。そんな警備員が、アトランタ五輪のアトラクション会場で、ベンチの下に不振なリュックを発見する。すぐに警察官が調べ、なかに爆弾が入っているとわかる。ジュエルは、すぐに、会場の人々を非難させる。そのおかげで、爆発しても、死者は二名、負傷者も百名出たが、この状況では最小限ですんだ。ジュエルは英雄としてマスコミに持ち上げられる。……のもつかの間、大学の学長だったかの、権威すじがFBIに訴え、権力は、この、どうみても「クズ」の男を容疑者にしたてあげようとする。
 彼は、「英雄」のとき、本を書かないかの誘いの時から連絡していた、旧知の弁護士がいて、容疑者に転落したあとも、彼に弁護を依頼する。サム・ロックウェル。かっこいい。「心は硬派の血が通う〜」一匹狼の弁護士である。彼が奮戦する。しかし、最後は、ジュエル自身が、「やり遂げる」。この一見バカみたいな男。なぜ、「おれに連絡したきた?」とロックウェルに尋ねられると、「それは、(昔のできごとで)あんたが唯一おれを人間扱いしてくれたから」。そして、最後は、自白を促すFBIたちに向かって言う。「おれが犯人だっていう証拠を出してくれ」──。ない。それで、ジュエルは容疑がないとして釈放される。正式に、その旨を認めた書類が来たのを弁護士が見せる。それだけの内容を、サム・ロックウェルのかっこよさと、母親役のキャシー・ベーツが、いかにFBIがプライバシーを侵害したかを泣きながら訴え、「リアル」を感じさせる。これこそ、映画が描くべき「物語」であると思う。