現象の奥へ

『ジョジョ・ラビット』──監督の教養を疑う(★)

ジョジョ・ラビット』(タイカ・ワイティティ監督、2019年、原作『JOJO RABBIT』)

 ナチスが殺戮したのは、敵国の敵もあろうが、おもに「内部」の「異分子」(ユダヤ人のほか少数民族、同性愛者など)を、まるで殺虫剤で害虫(事実、このイメージがヒトラーにはあった)でも処分するように、「効率よく」、1000万人程度「抹殺」した。これを普通の戦争とは言えないだろう、戦争を隠れ蓑にした民族浄化である。こうした事実を題材にして、少年のヒトラーユーゲントが、自分たちの間違いに気づく──アホらしく見ていられない。かくも、ホロコーストの事実は風化してしまった。
 和辻哲郎が1928年頃、フィレンツェに滞在して、子供ファシストの行進を、かわいらしいと見守っている(『イタリア古寺巡礼』)。子供は事実も善悪もわからない。そのとおりだが、それは、「幼稚園児ぐらいの小さな子供」である。本作の主人公のジョジョは、子供とはいえ、10歳である。それがこんな幼稚園児のように振る舞っているのでは、嘘丸出しである。母親も、息子のヒトラーへのあこがれを大目に見ておきながら、反ナチ活動のビラを配っているのは、普通に考えてげせない。これらはすべて、単なるがんこおじちゃんみたいなヒトラーを演じた、タイカ・ワイティティ監督のファンタジーであり、ヒトラーのしでかした事態すら自覚がないようにも見える。そして、アカデミー賞にさえノミネートされたことに、事実の激しい風化を感じる。映画は、ヒトラーを、「悪いことをいろいろしていたらしい」という子供の言葉で片付ける。悪いことにも、程度がある。
 こんな頭だけで作ったような映画を、反ナチ映画と、簡単に騙されてしまう観客のアタマにも疑問を感じる。少なくとも、まともなおとななら、こんな映画にうつつを抜かすのは恥ずべきことである。ことほど左様に、日本人も低レベルの民族に落ち果てたとみた。少なくも、私は、その国家の言葉を使用しない映画はまったく信用しない。