現象の奥へ

『フレンチ・コネクション2 』──ハードボイルド・アクション映画のお手本(★★★★★)

フレンチ・コネクション2』(ジョン・フランケンハイマー監督、1975年、原題『FRENCH CONNECTION II』)

フレンチ・コネクション1』(1971年)は、ウィリアム・フリードキン監督で、ハックマンの主演男優賞をはじめ、監督、作品、編集などでアカデミー賞を獲得した。本作の『フレンチ・コネクション2』(1975年)は、その4年後。賞はとくに取らなかったようであるが、監督はジョン・フランケンハイマーに代わっても、同じテイスト、強度を持ち、しかも、それぞれの監督の持ち味の違いも出している作品は、私の知っているかぎり、この『フレンチ・コネクション』「1・2」だけだ。
 もう50年近くも前なので、今どきのアクション、ストーリーに馴染んでいる観客は、古くさいと感じる向きもあるだろう。しかし、俳優が肉体を使って演じかつ、台詞は最小限度に抑えられ、ただカメラが、ハックマンとともに「走る」、こういう映画こそ映画の基礎であり、いかに技術が進んでも、決して忘れてはならないことである。
 匂うようなマルセイユの街、巨船から吐き出された滝のような水のなかを、アップアップしながら敵を追う、ポパイことドイル刑事ことハックマン。相棒のフレンチ、マルセイユ署のバルテルミー警部も渋くて味がある。ど根性たたき上げのドイル刑事が、麻薬組織に捕まり、麻薬漬けにされ、バルテルミー警部に助けられながら、なんとか復帰する──。それから始められる、執拗な追跡。どこからどこまで、アクション映画の醍醐味に満ちている。そして、最後、船で去っていく麻薬組織のボスを、埠頭から「シャルニエ!」と呼びかけ、振り向かせ、撃つ! 暗転。エンドクレジット。このかっこよさを忘れるな!

(レンタル・ヴィデオかテレビで以前何度か観ていたが、自分の「バイブル」である作品なので、購入してあったDVDで鑑賞した)

 

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『スタートアップ! 』──ドンソクにはハマた〜(★★★★★)

『スタートアップ!』(チェ・ジョンヨル監督、2019年、原題『START-UP』)

(2020/11/21@KBCシネマ福岡)

 今日(土曜日)も、ほぼ満席に近い感じ。やはり、マ・ドンソク目当てなのだろうか。それほど若い人々でもなかったから。この俳優、『悪人伝』で初めてお目にかかって、こんな、あくどい、濃すぎる顔は見たことない(笑)と思った。まんま「悪人伝」であったが、その彼が、『スタートアップ』という新作では、こともあろうに、「お茶目さん」を演じるというので、何を差しおいても初日にかけつけた。
 ドンソクは、中華料理店(韓国の〜?(笑))のコックというか、コック長。どーしようもない不良少年が店員として採用されて、その少年を鍛えるのだが、そのストーリーにそって、クセのある登場人物たちの事情が見えてくる。眼を開けたまま眠ったり、おかっぱアタマだったり、どこか不気味なコック長(といってもほかのコックは、見習い以外見当たらない)だが、やがて、彼の「いわく」が判明する。どのみち、尋常でない「強さ」の男は、政府筋か、ヤクザ筋か。彼は後者の用心棒のような地位に「あった」男のようであった。やがて「組」から迎えがくる。一方、不良少年のシングルマザーは、お金を借りて小さな店(トースト屋。韓国で流行っているのか?)を開く。息子とは喧嘩別れしたまま。
 不良少年の親友も、恵まれない境遇で、早く稼ごうと、「取り立て屋」の見習いになり、その不良少年の母の店に、取り立てに行かされる。借金の法外な利子の取り立てである。
 こうした筋書きは、一時日本映画でもあったのかもしれないが、今どきの韓国映画は、考え方の底にどこか清潔なところがあり、そうでありながら、日本映画がハマりがちな型にはまった陰惨な紋切り型が避けられている。ドンソクのキャラも、日本のヤクザ映画の誰それというより、この男以外にあり得ないユニークなキャラクターになっている。そこが物語を追うのに一筋縄にはいかないのであるが、思えば、この一筋縄ではいかない面倒さが、作品の価値ともなっている。エンディングの、実写が漫画化し役者を紹介するシーンは、よくある手ではあるものの、「これはお芝居でした」と明かしているようでホッとして楽しい。

 

【詩】「アンダルシア」

「アンダルシア」

この海この砂この舟この感触この風 
これは何なのか? 船底をじっと見ていた
松並木が続き 時間が海藻のようにまとわりついた
あれはいったい何なのか? わが父よ。
 
どこかの馬鹿が錆びたジジチャリで
ピレネーを越えることを想像していた。
それは富士山を自転車に越えるに等しい。
しかもマウンテンバイクでも嗤われる
ましてアンダルシアは、ただの草原に過ぎず、
時速150キロでも通過するのに何時間もかかる
 
愚かしいのは見栄に見栄を盛り続け
もはや本心はかけらもなく
事故にあって野垂れ死ぬまでは
見栄を吐き出し続ける
 
なぜエリオットは「マリーナ」という詩で、
セネカラテン語エピグラフに置いたのか
知りたいと思うのはそれだ
そして「何(what)」という問いを
発し続けたのか
 
シェークスピアの阿呆より阿呆な
日本の女衒的老人
にとびっきりうまい
反吐を
 
 

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【詩】「世界の起源」

「世界の起源」
ベケットは、ルネ・シャールの「クールベ:岩石粉砕機」という詩を英訳している。ベケットの英語の方が難しい。
Sand straw live softly softly take the wine
砂のストローは静かに静かにワインを吸い上げる
Sable paille ont la vie douce le vin ne s'y brise pas
砂のストローはワインも壊すことができない静かな命を持っている
それぞれの行は、ちがう世界を持ち、しかし、外の生を祝福する。
夜が支配している埃たちの世界
悲しみは女性器の表現を取り
クールベはいまだに注目の的である。しかし、
ベケットとシャールは
そんなことさえ
無関心のように見える。


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『フェリーニのアマルコルド』──思想を洗練されたスタイルで描く(★★★★★)

2020/11/14@KBCシネマ(福岡)

フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ、 1974年、原題『AMARCORD』)

 フェリーニの自伝的作品とよく言われているのに反して、フェリーニ自身は、本編は、彼の作品の中では「最も自伝的要素が少ない作品」であると、記者へのインタビューで答えている。むしろ、本編は、映画よりはるか前に出版された、『アマルコルド』というタイトルの、小説本の共著者で、ミケランジェロ・アントニオーニシナリオライターで詩人の、トニーノ・グエーラの「自伝」なのかもしれない。フェリーニとグエーラは、同年に、ほぼ同じ地域で生まれ、感覚や方言は共有していると思われる。そして、Amarcordとは、「私は思い出す」とはよく言われる言葉だが、実際は、標準イタリア語ではなく、二人の生まれ育った地方の方言であり、イタリアは100年以上前は、小国家の集まりだったので、このような方言が普通の母国語として存在した。そして、その「母国語」を使って表現活動する文筆家には、パゾリーニなどもいる。そして、グエーラは、パゾリーニなどにも認められた、一流の方言詩人である。そういう背景のもとに、本編の映画化がある。そして、フェリーニの独自のスタイルが展開される。ある意味、地方の風俗を、洗練された芸術に押し上げたのはフェリーニであり、思想を盛り込んだのも、フェリーニである。彼より10歳下(1930年生まれ)のゴダールは、彼から多くを学んでいると思われる。

「物語の枠」は最初からないので、そこには時間だけがあり、観客は自由に出たり入ったりする(この点を理解できない通俗映画愛好家は、「まったくわからない」と不満を漏らしている(笑))。思い出とはいうものの、想像や妄想も含まれており、文学的引用に彩られている。カルヴィーノの、『木登り男爵』を思わせるシーン(おそらく民話にあるのだろう)、狂言回しのような映画監督風の初老の男が、ホテルの前で、観光客の女性に聞く。「レオパルディという詩人を知っていますか?」知らないと女性は答える。男は、右手を高くあげ、「ダンテがこのくらいだとすると」、次に、左手をそれより数十センチ低くあげて並べ「レオパルディはこのくらいだ」。女は答える。「ずいぶん偉い詩人なのね」

 1928年にフィレンツェを訪れた和辻哲郎は、幼稚園児くらいのコドモ・ファシストが、「ファッショ、ファッショ」と旗を振りながら行進していく場面を広場で目にして、そのかわいらしさにびっくりした様子を、『イタリア古寺巡礼』に書いている。ことほどさように、ファシズムは地方都市の生活に流れ込み、緩いやり方で人々を支配していく。お祭りとファシズムが溶け合っていく。そこを断固描いたのが本作であるとも言える。

 

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【詩】「単純なソネット」

「単純なソネット
 
ナチから逃れるため私は顔を変えた。
あなたは私だと気づかなかった。
それでもとても親切にしてくれた。
親戚が教えてくれた、夫が私の不明をいいことに、
私の財産を自分のものにしようとしていると。
親族が集まる会合があり、
みんなの前で、あなたがピアノを弾き、
私が歌うことになった。
何を歌う? と、ピアノの前でそばに立った私に聞いた。
「Speak low」私は言った。
「Speak low」だね。あなたピアノを弾き始めた。
Speak low, when you speak love...
あなたの顔色が変わる──。そう、あの日のように
抱きしめて。
 
 

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【詩】「恋」

「恋」
 
Dem Geier gleich,
Der auf scweren Morgenwolken
Mit sanftem Fittich ruhend
Nach Beute schaut,
Schwebe mein Lied!
 
餌を漁る偉大な猛禽のように
やさしい翼を休め
重苦しい朝の雲、
獲物はいないかと見回す:
そのように私の歌よ高く飛べ!
 
人妻への燃える恋心を抱え
ワイマールのハーツ山へ
表向きの目的は
鉱山の調査
若き
ゲーテのこの歌に
祝福あれ!
 
と若くして年老いた
The Vulture
という詩を作った
 
dragging his hunger through the sky
of my skull shell of sky and earth
 
飢えを引きずりながら
天と地のわが頭蓋を横切る
 
名詞を大文字で書くドイツ語に対抗するため
ベケットは文の始めでさえ大文字を使わず
すなわちすべての文章において
大文字を使わず
卑小な生き物の命を祝福している。
 
高校一年の時
ベケットに出会って、
私も永遠に年をとった
その鉱脈は
ゲーテまで行く道だったのか
深いところに燃える
恋を掘り出すために。
 

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