現象の奥へ

【詩】「ロシアより愛をこめて」

ロシアより愛をこめて

 

文学とは、まず第一に、自由の香りがしなくてはならない、けれど、

ナボコフは、軽蔑さえ宝物として記憶する、そう、

記憶だけが文学だ、彼にとって。

それから、ベンヤミン

物語作者を探して、ロシアの地をゆく、そう、あれはロシアだったか。

きのうは、NHKニュースのインタビューに、

フランスの歴史学者にして統計学者、エマニュエル・トッドが、ひさしぶりに登場し、

「普通考えられているのとは真逆で、ロシアは軍事に弱く、経済に強い」

このロシアびいきの学者は、どんな事件でもロシアの味方をする?

あてにならない。いろいろ専門家や学者があれこれ持論を述べても、

NHKキャスターがウクライナに飛んでも、

ナボコフの深い落胆は見つけることができない。

かつて、ロシアの村々には、

民話というものがあったのです。




『現代詩手帖2022年5月号』──ほかの詩誌ではできない内容となっている(★★★★)

現代詩手帖2022年5月号』(思潮社、2022年4月28日刊)

 

 四方田犬彦氏の小詩集に関心があり、購入した。そうそう世間の人は目がいかないが、私は、T.S.エリオット『荒地』のもとになっているテクスト、フレイザーの『金枝篇』と関係があるかな〜?と思ったからで、その小詩集のタイトルが、「金枝」となっていたからだ。なるほど「金枝」とは、「金枝篇」の英語タイトル、『The Golden Bough』そのままであり、最終章のタイトルでもある。この書をどう解するか。「神殺し」から古い神話、古代ギリシアの世界を、作品の最後の註にあるように、「オウィディウス『変身物語』の変奏」なのか。しかし、『金枝篇』が証そうとしているのは、その時代よりさらに古い時代であり、時間的には文化人類学と交差するあたり、伝説ではなく、あきらかな創作(物語)が作られたという「事実」である。博識の四方田氏のことだから、そのあたりのテクスト群を渉猟しているのであろうか。一見深い詩に見える。しかし、読みはじめてみると、これは詩ではない、と感じる。詩は、どんな学歴のないものにも書けるが、また書こうとしても書けないひともいる。四方田氏は後者にあたる。というのも、詩のリズムではなく、散文、氏が得意としているエッセイ、批評の文章なのである。行替えすればいいというものでもなく、形容は紋切り型でほんとうに心に感じたものではない。それらしく見せる。「仏作って魂入れず」が、このひとの詩作法である。しかし、本誌がいちばんの有名人として扱っている通り、なにかの賞が、「もらって〜」と言ってすり寄ってくるかもしれない。

 清水哲男氏が亡くなったのを本号で知った。清水氏は、個人誌を出していて、「生きた証に、生涯出し続けたい」とこの個人誌に書かれていたので、縁あって送っていただいていた当方は、あるとき途切れたので、どうされたのかな?とは思っていた。私は、大学生の頃、本誌の投稿欄に投稿していて、その時の選者が清水氏だった。それから、まあ、多少目をかけていただいていた。清水哲男こそ、「現代詩」を始めたひとであり、その後似たような作風、日常的なことがらをさりげなく描く、そんな作風がはやった。しかし、清水氏は深い教養を隠して描いているのであり、「詩は単純でいいんだ」という考え方とはかなり違う。ご冥福をお祈りいたします。

 本号はそれなり、ポレミックなテーマも書き手も並び、ほかの詩誌ではできない内容となっている。




 

【詩】「ちょうどよいテロリスト」

「ちょうどよいテロリスト」

 

Facebookの魑魅魍魎をゆけば、

第一詩集として、『ちょうどよい猫』という題名の詩集を出した女性詩人あり。

「詩を書いてます。まだ駆け出しで」と。

しかし、それなりの人気を集めていた。

われははたと立ち止まり、「ちょうどよい猫」とはどんな猫と思った。

現実に「ちょうどよい」と思ったのだなと思った。

ここには、頭でっかちのアレゴリーも抽象的な表現もなく、

中身はともかく、これはこれで、すでに題名にしてからが詩だな、と思った。

もうあまり、FBを覗かなくなったともあった。

もう威張ってるやつはいらない、大御所ぶりもいらない。

実績のないなんかの選考委員、詩壇(というものがあればのハナシだが(笑))ゴロ。

しかし、私としては「猫」は平凡だ、「ちょうどよい」とくるなら、

「テロリスト」はどうだ? そーねー、連合赤軍の誰それとかね。

福田の前に福田なし、福田の後に福田なしの、あの福田赳夫が、「超法規」したテロリストの諸君である。



 

 

『英雄の証明』──差異を描き出すのも映画の手柄(★★★★★)

『英雄の証明』(アスガー・ファルディ監督、2021年、原題『GHAHREMAN/A HERO』

 

イランは映画大国で、キアロスタミをはじめ、作風は洗練されている。生活は欧米化されていて、社会もわりあい開かれている。しかし、細部で、やはり民主主義先進国の生活、社会に慣れている目からみると、違和感がある。そのひとつに、「たかが借金」で、犯罪者のように(事実犯罪者なのかもしれない)収監される。そしてこの、金貨の入ったバッグは誰のもの?という物語を見ていると、大げさというか、なんというか。だいたいそのバッグを警察に届けた時点で終わり、先進国なら物語にもならないが、それを本人が保管し、落とした人を探し、返す、というのが、この物語を複雑にしている。そして、収監されている人々に保釈金だかを寄付するという組織も、先進国にはないもので、警察の力がそれほど強くないのか、この不思議な物語に一役も二役も買っている。

 物語の時代は現代なので、当然、インターネットがあり、SNSがあり、人々の視線や意見も混じり合う。これがこの映画の環境として与えられている。

 よく考えたらそれだけの映画で、これが「英雄か(笑)、イランでは」と思うと、それは寝落ちの間に、大きな違和となって入り込む。

 てなてな不思議な映画で、家族で囲む食卓もテーブルではなく、絨毯の敷かれた床に皿などを置いて食べる。こういうのも、昔からの食習慣だろうが、妙な感じがする、欧米化民主主義の国に生きるわれわれである。

 しかし、そのような差異を認めるべきであり、その差異を「今の問題」とともに描き出すのは映画の手柄であろう。