現象の奥へ

細田傳造の最新詩「森の方へ」「燃えるゴミの日のラファエル」@『Ultra BardS(ユルトラ・バルズ)』Early Summer 2022 vol.37

 

印刷はきれいな、エリート臭漂う、しかし編集センスは決してよくない、そういう同人誌(にも)、細田傳造は加わっている。それをどうこう言う筋合いは当方にはない。ただこうでもしないと、年に数回の詩集向けの詩はたまらないだろう。ひそかに自分だけで書く(書き下ろし)という方法もあるが、どうも「出たがり」の「詩人さん」たちには、そういう作業は向かないらしい。とくに、細田はでたがりの中でも一番の方なので、氏は氏なりの方法でやっておられると思うしかない。

友人の氏のおかげで、当方には縁もありそうにない、詩誌が見られるのは、ありがたいことである。

しかしあれだな、このふたつの詩、既視感あり。確かに細田らしい口調、思想は垣間見られるものの、ほかの詩人の方々に混じってきたような……。メダカが黒い水のなかで黒くなるように。

細田傳造はこれからどこへ行くのか?

「傳ちゃんは無学の詩が売り物だから、インテリ性を出してはだめ」という声もある。

無学のひとが書く詩って?

そんなものをひとは読もうとするか?

そこんとこを、いつものギャグ性、韜晦性と、勘違いしないように。

 

 

 

細田傳造の最新詩「森の方へ」「燃えるゴミの日のラファエル」@『Ultra BardS(ユルトラ・バルズ)』

細田傳造の最新詩「森の方へ」「燃えるゴミの日のラファエル」@『Ultra BardS(ユルトラ・バルズ)』Early Summer 2022 vol.37

 

印刷はきれいな、エリート臭漂う、しかし編集センスは決してよくない、そういう同人誌(にも)、細田傳造は加わっている。それをどうこう言う筋合いは当方にはない。ただこうでもしないと、年に数回の詩集向けの詩はたまらないだろう。ひそかに自分だけで書く(書き下ろし)という方法もあるが、どうも「出たがり」の「詩人さん」たちには、そういう作業は向かないらしい。とくに、細田はでたがりの中でも一番の方なので、氏は氏なりの方法でやっておられると思うしかない。

友人の氏のおかげで、当方には縁もありそうにない、詩誌が見られるのは、ありがたいことである。

しかしあれだな、このふたつの詩、既視感あり。確かに細田らしい口調、思想は垣間見られるものの、ほかの詩人の方々に混じってきたような……。メダカが黒い水のなかで黒くなるように。

細田傳造はこれからどこへ行くのか?

どこかのザッシの女編集者のように、「傳ちゃんは無学の詩が売り物だから、インテリ性を出してはだめ」?

無学のひとが書く詩って?

そんなものをひとは読もうとするか?

そこんとこを、いつものギャグ性、韜晦性と、勘違いしないように。

 






 

ミシェル・フーコー『臨床医学の誕生』

臨床医学の誕生』(ミシェル・フーコー神谷美恵子訳、みすず書房、原題『Naissance de la clinique』1963年刊)


フーコーのレビュー作、ビンズワンガーの『夢と実存』の、本文より長い序文、と重なるところのある著作である。つまり、医学はどこから科学か? ことに言葉を使った分析の精神医学はそれを考えるには格好の素材である。

フロイトが創始した精神分析は、当然ながら科学ではない。フロイトの創作である。「患者」に夢を語らせることによって、なんらかの「分析」を試みる。この方法を継承したのが、アマチュア評論家が大好きなラカンである。これは言語の妄想であるから、どうとでもなる世界である。一方、ビンズワンガーは、言語というものを、ソシュールから出発して考え、精神医学を科学として考えようとした。

ひとことに、精神分析とは、患者がいかなる言語を使い、いかなる状況を生きていたかによって、夢、あるいは、それを母語で語ることは、全人類共通である。そんなものを一律の型にはめることはできない。

幼稚な人間は、フロイトの著書どころか、そこから切り取られた解説書のような本を読んで「おすすめ〜」(笑)とか言って、なにか精神分析の大家にような顔をしている(笑)。

問題は、著者からの引用を自分の頭で考えたと思い込んでいることである。いかなる結論が出ようと、まず精読し、かつ、自分の頭で考える、ということである。

本書は「臨床医学」(=病院への収容)への歴史、成り立ちを研究した本ではない。序文にあるように、「この本の内容は空間、ことば(ランガージュ)および死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである」

しかし、フーコーの著書はだいたいいつも、それらに関するものである。頭をよく見せたくてなのか、じかにその表現と向かいあわずに、なにか常に「正解」のようなものを探す。大河ドラマを毎回楽しまず、集大成のようなものを遅ればせながら探して、エラそうな感想を口にしていた人がいたのに呆れかえった。この人の生きていた道が、すでにしてそうしたものだろう。ご愁傷さま(笑)。

本書を読むと、哲学とは常に文献学なのであり、そういう地味な作業なくて、自分勝手な表現「××性」などと、「性」とかをつけてもなにも思考したことにはならない。ニーチェだって、文献学者なのである。

 



ベルナール=アンリ・レヴィ著『危険な純粋さ』

『危険な純粋さ』(ベルナール=アンリ・レヴィ著、立花英裕訳、1996年刊、紀伊國屋書店、原題『La pureté dangereuse』(1994))──結局、レヴィの予見の通りの世界になった?

 

フランスの「現代思想」花盛りののち、やってきた「新哲学派」。とはいうものの、私はレヴィしか知らない。なかなかの「イケメン」で、仏女優イザベル・アジャーニの恋人との噂も流れた。ありそうな感じもするが。「現代思想」では、ジャック・デリダに似た雰囲気。思想が? さあ、それは……。当時は、似非っぽい雰囲気も漂わせていた。しかし、なぜか急に、この人のことが思い出され、何冊かの著書を集め直した。「現代思想」の哲学者たちと比べて軽い感じはする。しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊したあとも、事態は明白ではなく、完全に変化するには何十年もかかるだろうと言っている。果たして、事態は、レヴィが予見したような世界になってしまった。今、ロシア、ウクライナなどと言ってみても、1994年のルワンダの内戦ほど酷いものでもないだろう。ルワンダでは50万人が惨殺され、80万人以上が難民となった。インターネットはあったが、かくも克明に、ニュースで「中継」「克明に」中継されることもなかった。アフリカではウクライナ以上のことが「ひっそり」長い間繰り返された。そのときの証人が、レヴィの本だとも言える──時代になってしまったなあ……などと、私なんかは思うわけよ。





 

【詩】「ある詩を考えながら、ほかの詩を思い出すこと」

「ある詩を考えながら、ほかの詩を思い出すこと」


Où maintenant? Quand maintenant? Qui maintenant? Sans me le demander. Dire je.
Sans le penser. Appeler ça des questions, des hypothèses.
Aller de l'avant, appeler ça aller, appeler ça de l'avant.

どこなんだ? いつなんだ? だれなんだ? それをおのれに問うことなしに。私は言う。考えないで。それを質問と呼ぶ。仮説と。以前に行き、それを行くと呼ぶ。それを以前と呼ぶ。

サミュエル・ベケットのmaintenant(今)と、

appeler(呼ぶ)と、

aller(行く)

登場人物たちは、問うたり、呼んだり、行ったり。

モノクロの世界。せめて、

靑を!

そう、フェルメールの靑を。

古きネーデルランドの光の名前を。

時間のない世界。



【詩】「うつらうつらしながら」

「うつらうつらしながら」

 

La sottise, l'erreur, le péché, la lésine,

Occupent nos esprist et travaillent nos corps,

馬鹿、間違い、罪、吝嗇が、

われらの頭を占め、体を動かす

 

と、シャルル・ボードレールは書く。

ここには、なんら観念的な言葉はない、

ただ現実を描写しているだけ。

それがボードレールの詩だ。

 

Et nous alimentons nos aimables remord,

Comme les mendiants nourrissent leur vermine.

 

そして心地よい噂を養う、

乞食がしらみを養うように。

ここには美しい抽象も意味ありげな比喩もない。

少なくともそれが、詩だった──。



『新潮2022年6月号』──『現代詩手帖』以下(★)

『新潮2022年6月号(新潮社、2022年5月7日刊)

 

売れない文芸誌の凋落は激しいが、なかでもこの『新潮』が随一である。書き手は、三十年前とそう変わらず、お家芸?(笑)の、学閥、コネを思わせるメンバー。お土産で言ったら、上げ底も激しい。

 四方田犬彦氏の、「それでもロシアはなぜ懐かしいのか」。けったいな役者であった、大泉なんたら(名前ど忘れ(笑))の父親であった、大泉黒石という日露混血作家の「伝記」的要素をちりばめながら(というのも、この作家の伝記のような本を書いていたそうで、その「破片」?)、著者幼少時の思い出(トルストイの童話(笑)など)をあしらい、思いつくかぎりの「ロシア関連事物」、大急ぎで仕入れたかのような表面的、昨今ウクライナ情勢などを配して、ロシア専門家を気取り、「なぜ懐かしいのか」という文章を繰り返す。これはエッセイというよりは、素人の手記まがいのシロモノである。四方田氏といえば、文筆一本で食ってきて、著作も百何冊が自慢のプロであるが、こういう幼稚な文章を金を出して載せているのが商業文芸誌なら、もう「詐欺」に近い。それというのも、売れなくて当然と威張っていたから、このような体たらくになってしまった。私は、ロシア文学に関するもっと高尚ななにかがあるかと思って期待して買ったのだが(笑)。

 川端康成賞の選考委員に荒川洋治氏が名前を連ねているのも驚いた。はたして荒川氏に、すぐれた小説のいっぺんでもあったか? カルチャーセンター講師が関の山の実力ではないか(笑)。

 最果タヒの「連載長編詩」、このザッシの編集長と同じ、京大卒! 顔は隠しても、学歴は出している(笑)。いずれ、新潮社から詩集が出る?

 宣伝に載っていた、「ドナルド・キーン著作集全15巻完結」。残念ながら、キーン氏の最高作が入っていない。中央公論社のようなフォローはしていなかったのだろう。

 作家気取りの芸能人、小泉今日子。全身の写真があるのは、この「作家」だけ(笑)。それにしても、今更に「いい年こいたストリートファッション」、やめてください。もうズレズレですから。

 ……てなわけで、私のような筋金入りの文学愛好以外、1200円も出して、誰が買いますか(笑)?