現象の奥へ

【本】『恋人たちはせーので光る 』──「商品」としては完璧、しかし著者が「男性」である「疑惑」は残る(笑)。

『恋人たちはせーので光る』(最果タヒ著、 2019年8月30日、リトル・モア刊)
最果 タヒ (著)

  徹底して顔出しをしない「覆面詩人」。そういう書き手は、過去にも、アメリカ作家ピンチョンだったか、いろいろいたし、日本でもいる。しかし彼らは、公の場には顔を出さない。しかし、「覆面詩人」でありながら、最果タヒは、ちょろちょろと公の場に顔(?)を出す。まんま、「顔の部分だけ」隠している。テレビにも出たというので、果たしてどんな風貌なのだろう?と検索したら、「なんでもある」YouTubeに画像はなくて、wikiペディアによると、「あみぐるみ」の人形があって、陰に隠れて声だけ出していたとか。確かに、YouTubeには、最果が詩を朗読している「声」はある。かわいらしい女性の声である。しかしながら、その程度の声は、男性にも出せる。
 美術のインスタレーションとか、さまざまな分野の「芸術」とコラボしている。従って、実際に接した人々もいると思う。写真などは、おかっぱ頭に、本で「顔の部分」だけ、隠している。女装していれば、そんなことは簡単にできるし、現実にも、めがね、マスクなどで、女性と印象づけることは可能であり、とにかく、おおやけへは、女性を印象づける操作に成功しているともいえる。
 「詩人最果タヒ」は、出したい情報(生年月日と、出身校(京大))だけ出している。なるほど、この「データ」は現実のモノであろう。
 私は、秋元康が、「ユニット」としての歌手を思いついたことを思った。「最果タヒ」とは、もともとは、「現代詩手帖」出身の、普通の詩人であった。賞を取り、若いので、詩集を思潮社から、「企画」で出版した。その後も、中原中也賞を取るなどして話題になり、詩集が売れ始めた。「リトルモア」という出版社が目をつけて、「ユニット」(本の編集、装丁などの斬新さ(アート作品へとつながる)で、「商品」を作り上げ、現在に至る。
 コンテンツは、最果の詩であるが、この詩は、悪くない。センスがいいし、しっかり考えられている。本人も、三十代はじめだから、「ありうべき若者」の世界を詩に書いている。ほとんど教祖のような詩である。

座礁船の詩」

ぼくがきみを好きだとしても、きみには関係がない。割れてしまったガラスは以前より反射するから、本当は境界線などなくしてたただギラギラとするべきだった。確かに、恋するべきだった。満ち潮のとき、ひとはたくさん生まれるらしい。本能に従っていれば、ぼくは程々の優しさを、そなえていることがわかる。それが恐ろしくて、みんな、恋をして家族を持つんだが、ぼくは一人きりで生きて、神様になろうかと思っている。


 決して紋切り型にははまらず、永遠にズラしを行う、そういう詩作法である。
 人間が書いたような気がしない。AIが書いたような詩群である。それが新鮮で、美術ともコラボできるゆえんかもしれない。生身の本体を隠しての詩、あるいは文学は、実は不可能である。何十年かして、「顔を出す」かもしれないし、それより前に、忘れ去られるかもしれない。このような「人工的な思考」の「詩」は、ありふれて、まさしくAIによって量産されるようになると、「最果タヒ」という詩人は、時代の忘却の彼方へと消え去り、歴史には、あとかたも残らない。時代が生んだ「商品」の運命である。
 普通、現実の自分を出す「あとがき」に、一人称として「ぼく」を使っている。女子高生なども「ぼく」を使ったりするから、これだけで男性とはいいがたいが、「性別をまぜこぜにしたい若い女性」像を作り上げているようでもある。うがちすぎか(笑)。
  本書の割り付けなどは、一編の詩ごとに、活字の種類、大きさなどを変えている。組み方も、縦横(たてよこ)自在である。目次の並べ方も、一直線ではなく、項目をデザイン的に配置してある。表紙デザインは、赤が目立つ背景に、詩の文字をぎっしり並べ、真ん中のイラストは、西洋の、ドラキュラなどが眠っていそうな棺である。そして、「せーの」という文字だけ、目立つようにデザインされている。美術品として完璧である。

 

恋人たちはせーので光る

恋人たちはせーので光る