現象の奥へ

『名もなき生涯』──「作家性」とは、「文体」を持っているかどうか(★★★★★)

『名もなき生涯』(テレンス・マリック監督、 2019年、原題『A HIDDEN LIFE』)

「作家性」なる言葉をやたら振り回している御仁を見かけるが、ほんまに意味がわかってるのかね(笑)? 「作家性」とは、この、テレンス・マリックみたいな監督にこそふさわしい。その特長は、
1,「文体」を持っている。それは、スタイルに近いが、もっと文学的なものである。
2,ゆえに、その作品の一部を見ただけで、その人の監督だと知れる。
3,あまり俳優に頼ってない。
4,当然反エンターテインメントである(だから、そのテの感動を期待する方がないものねだりとなる)
5,「純文学」である。

 本作は、マリックの「文体」がはっきり出ている作品で、あえて、ハリウッド俳優(『ツリー・オブ・ライフ』ではたっぷり使った)を使わないことによって、「文体」が主役に躍り出た。「文体」とは、もちろん文学の言葉だが、「文体」はクセとも、よく使う言葉ともちがって、「文体」が持てるようになるには、技術も修練も教養もいる。ゆえに、一流作家ということになる。小説家でいえば、大江健三郎とか。
 本作は、第一次世界大戦、とくに、ドイツの戦争に巻き込まれた、オーストリアの一農民の「生涯」である。彼は反ヒトラーを貫き通して、署名すれば助かる裁判で、死刑となる。とくになにかりっぱなことをしたわけではない。愛する妻も、子供もいる。彼らのために、「表面だけの妥協」をして生き延びようとせず、考えをまげず、死を選ぶ(この「処刑方法」が怖気(おぞけ)をふるう)。
 「それがなんのためになるのか?」周囲のいろいろな人がいう。軍部のトップも、聖職者も、妻が頼んだ弁護士も。しかし、彼は考えをまげず、妻も彼の考えを受け入れる。それはなんのため? ただ、自分だけかっこつければいいというプライド? やがてわかる。映画の最後で、マリックは、ジョージ・エリオットの言葉を引用する。
 「今、それほど悪いことがおきないのは、名もなき人の生涯が支えている」

『名もなき生涯』、Hidden life、すなわち、本作の原題である。

 彼のスタイルは、ダイアローグでもダイアローグではなく、すべて、個人の独白のように響く。カメラの視点は常に一定で、それは、神の視点のようである。なぜひとは苦しむ? その意味はやがてわかる。それが、マリックの全作品のテーマである。
 ま、バカには、この映画は理解できんだろーな(爆)。はい、どうぞ、CMフィルムみたいと思っててください。