現象の奥へ

【昔のレビューをもう一度】『君の名前で僕を呼んで 』──愛とは教養である

●愛とは、男と男の愛しかない。

君の名前で僕を呼んで 』(ルカ・グァダニーノ監督、2017年、原題『CALL ME BY YOUR NAME』)2018年5月1日 23時27分

愛とは教養である。教養がないと、「モーリス」映画を期待して外されたと悪態をついたり、ストーリーや演出の起伏がないなどと、自らのバカを露呈することになる(笑)。
 主人公の17歳の少年は、実は(当時)22歳の、ショーシャ・ローナン男版のような、ニューヨーク生まれのアメリカ人俳優が扮している。巧まずして、こういう「深さ」は出せないだろう。北イタリアの自然に富んだ別荘地が舞台ながら、制作側は、自然に、任すわけにはいかない。具体的に所在地を設定せず、「こんなことがありました」的な展開である。
 古代ローマ文明研究者の大学教授の屋敷に、「例年のように」大学院生が、おそらくは、教授を補佐しつつ、自らの論文を書くためにやってくる。それは毎年のことなので、教授の17歳の息子やガールフレンドたちは、「今年はどんなやつかな?」的な興味しかない。それが……
 車から降りた彼は、身長190センチ超、だけど、ごつさは全然なくて、遠目でもハンサムとわかる。しかも、教授がしかけた、母の出すアプリコット・ジュースを飲みながらの、「第一の難問」。アプリコットの語源をも、難なく自説を披露して、教授のお試しを、突破する。少年は少年で、バッハなど、クラシックを編曲する趣味(?)を持っている。ピアノも、オリジナルにすばらしく弾ける。母とは、フランス語で話している。ということは、母親はフランス人か? ガールフレンドともフランス語で話していて、一家は英語で話している。お手伝いさんや下男(まー、差別語ですかね(笑))などとは、イタリア語で話す。
 すると、この一家はユダヤ系フランス人なのかもしれない。だいたい、教授の名字のパールマンは、ユダヤ系の名字だ。やってきた、アメリカ人の青年も、ユダヤ系である。
 頭脳明晰の、オリヴァー(アーミー・ハマー)だからこそ、「最高の愛の交換」を思いつく。「きみの名前でぼくを呼んで。ぼくの名前できみを呼ぶから」。これこそ、時間にも社会的条件にも打ち勝つことのできる最高の愛の証である。よしや、この二人に「ハッピーエンド」があるとして、それは、途中でパールマン家にやってくる、年老いたゲイ夫婦のお客のようになるのが関の山。かくも、時間は残酷である。美しいまま、美しい時間を凍結するなら……「きみの名前でぼくを呼んで」である。だから、(「オリヴァーの帰国」で終わってもいいはずだった)物語は延々と続き(このあたりが、フツーの映画しか知らないか観客は冗長に感じてくる)、アメリカへ帰ったオリヴァーから突然電話がかかってくる。それは、不自然でもないように、ユダヤ特有の、「ハヌカ祭」の日に設定されている。オリヴァーはそこで、自分の婚約を告げる。けれど同時に、少年への愛も伝える。お互いは、自分の名前で相手を呼び合う。これこそ、時間にも社会の規制にも打ち勝ち、いつでも二人の時間を取り戻すことができる術(すべ)なのだ。
こうした「映像の文学」に、通俗的なドラマチックな展開(バカが、「母親とできるとか」と言っていたが(笑)。そういう意味では、ブ男、ダスティン・ホフマンの『卒業』は、通俗である(笑))を求めても意味がない。しかも、美として表現されるためには、演じる男優たちの洗練された演技術、かつ、美しい肉体が必要である。とくに、少年を魅了する、「おとなな」男の美は、今役者としてノリにノッている、アーミー・ハマーあってのものだろう。彼は、今、ブロードウェイの舞台に立っている。ぜひ、生(なま)アーミーを見るために、ニューヨークへ行きたいものである(笑)。