現象の奥へ

【昔のレビューをもう一度】『グッバイ・ゴダール! 』──いかにもゴダールチックな偽物(★)

『グッバイ・ゴダール』(ミシェル・アザナヴィシウス監督、2017年、原題『LE REDOUTABLE/GODARD MON AMOUR』)
2018年7月23日 4時26分

ゴダール全評論・全発言』(筑摩書房)によれば、ゴダールはなによりも作家になりたくて、しかも、かなり長い間、評論を書き続けてきた。キャリアは評論執筆から始まる。続いて「カイエ時代」(1950-1959)、この時代は、ルビッチをはじめ、さまざまな映画作家を論じ、分析し、考察している。本編では、「ルノワールブルジョワだ」みたいなひとことで終わっているが、まさかそれをそのまま信じているようなおめでたい観客には、ゴダールは理解できないから、本編に拍手喝采して悦に入っていればいいだろう(笑)。当然ながら、深いルノワールの考察の評論もあるし、自らルノワールにインタビューする映画も作っている。ゴダールはこうして長い間、映画を論じ、自らのスタイルを模索した。

 続いて「カリーナ時代」(1960-1967)がやってくる。ここで、一般の人の多くが口する題名の作品を作り、名声を得る。

 その後、本編の「毛沢東時代」(1967-1974)に入り、本編では、有名人の映画監督となっている。常に時代と切り結ぶ(真の表現者はどんな分野でもそうあるものだが)ゴダールなりのスタンスで、「若者との連帯」を打ち出す。カンヌ映画祭をボイコットし、大学生たちの会議に出席する。ここに登場したするのが、本編の「ヒロイン」、アンヌ・ヴィアゼムスキーである。哲学科の19歳。コケットっていうのかな、この時代、フランス女はみんなこんなだった(笑)。知れた風な口を聞く、セクシーでかわいい女の子。彼女主演で撮った『中国女』(1967)、これは、ゴダール作中でも傑作になったし、その後の『東風』(1969)も傑作になった。この二作を観ないで、ゴダールを語ることは不可能である。もし語っている人がいたら、そいつはまやかしである(笑)。と、ゴダール的に言ってもいいだろう。

 その後、ゴダールは、「八〇年時代」(1980-1985)へと入っていく。それとともに、ゴダールは文学性を露出させ、本人は、「バカ殿」へと変貌していく──。

 要するに本作は、ゴダールという映画作家の「いちばんわかりやすい時代」の、たまたま関係していた女が書いた暴露本(?)をもとに構成された、「いかにもゴダールチックながら、まったく似て非なる作品」ということになる。

 ちなみに、ゴダールは前出の本に収録されているインタビューで、『中国女』では、哲学者のフランシス・ジャンソンが列車内で、学生のアンヌと語り合うシーンは自然なダイアローグで目を引くが、彼は快く出演してくれたが、笑いものになりたくなくて映画出演を拒否した哲学者がいたと暴露(笑)している。その名前を見て笑った。『ウィーク・エンド』出演依頼を拒否した、フィリップ・ソレルス、『アルファヴィル』を拒否した、ロラン・バルト。とくに、『アルファヴィル』にバルトが出ていたら、この「駄作」はもしかして、傑作に転じていたかも知れないと思うと惜しい(笑)!そこでゴダールは言う、フランシス・ジャンソンは、「映像は映像にすぎないということを知っていた」

 Francis a cela de bien qu il sait qu une image n est qu une image

 この理解が、本作の監督には欠けていた。Dommage.

 

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