現象の奥へ

渡部直己著『日本小説批評の起源』──名著『日本文学評論史』(久松潜一著)の存在をまったく知らないようである。(★)

『日本小説批評の起源』(渡部直己著、2020年6月26日、河出書房新社刊)──名著『日本文学評論史』(久松潜一著)の存在をまったく知らないようである。(★)

 

 本書の決定的瑕疵は、「批評」と「評論」が分かたれてないことである。著者(と関係編集者)はどうも、批評=評論と思い込んでいるようだが、『日本文学評論史』の著者、久松潜一は、評論とは、批評+基準と定義している。久松潜一は、文学評論史を専門とする学者で、『日本文学評論史』(至文堂、昭和44年刊)は、歴史的な名著である。このような名著の存在も知らず(渡部氏のこの本には、一語の明記もないゆえ、知らないととっておく)、よくもまあ、こういうでたらめを、エラソーに並べたものである。久松氏の著書によれば、すでに歌集を選ぶということも「批評」意識が存在した証左であり、『源氏物語』などの古代小説にも、本文の中に批評の部分はある(たとえば、「蛍」の巻)。渡部氏の本にも、本居宣長への言及はあるが、「もののあはれ」は、中世からの文学観であり、べつに宣長が発明した言葉ではない。

 本書が題名に偽りありというのは、「日本小説批評」の歴史について説いているわけではなく、『水滸伝』(中国の長編口語小説で、清の金聖嘆(きんせいたん)が後半部を切り捨て編集した。明代初め、すなわち14世紀に、成立したとされる説が有力)をひたすら「我田引水」して本人だけが悦に入っているだけである。そして、ありがちな今の、頭でっかちの批評家の例に漏れず、外国の現代思想家の名前を引き合いに出して、なにか言った気になっている。すべてミソクソで、文章のスタイルは、「あいかわらずの」蓮實重彥のエピゴーネンで、蓮實ほどの教養のないのは丸出しで、読み手をハナから馬鹿にしている上から目線口調である。いったいこんな「批評家」がどこから現れ、好き勝手に本が出せているのだろう。まったく日本の出版界は甘いものである。

 久松潜一氏があの世で、ため息をつかれているであろう。

 

 

 

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