現象の奥へ

『フェリーニのアマルコルド』──思想を洗練されたスタイルで描く(★★★★★)

2020/11/14@KBCシネマ(福岡)

フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ、 1974年、原題『AMARCORD』)

 フェリーニの自伝的作品とよく言われているのに反して、フェリーニ自身は、本編は、彼の作品の中では「最も自伝的要素が少ない作品」であると、記者へのインタビューで答えている。むしろ、本編は、映画よりはるか前に出版された、『アマルコルド』というタイトルの、小説本の共著者で、ミケランジェロ・アントニオーニシナリオライターで詩人の、トニーノ・グエーラの「自伝」なのかもしれない。フェリーニとグエーラは、同年に、ほぼ同じ地域で生まれ、感覚や方言は共有していると思われる。そして、Amarcordとは、「私は思い出す」とはよく言われる言葉だが、実際は、標準イタリア語ではなく、二人の生まれ育った地方の方言であり、イタリアは100年以上前は、小国家の集まりだったので、このような方言が普通の母国語として存在した。そして、その「母国語」を使って表現活動する文筆家には、パゾリーニなどもいる。そして、グエーラは、パゾリーニなどにも認められた、一流の方言詩人である。そういう背景のもとに、本編の映画化がある。そして、フェリーニの独自のスタイルが展開される。ある意味、地方の風俗を、洗練された芸術に押し上げたのはフェリーニであり、思想を盛り込んだのも、フェリーニである。彼より10歳下(1930年生まれ)のゴダールは、彼から多くを学んでいると思われる。

「物語の枠」は最初からないので、そこには時間だけがあり、観客は自由に出たり入ったりする(この点を理解できない通俗映画愛好家は、「まったくわからない」と不満を漏らしている(笑))。思い出とはいうものの、想像や妄想も含まれており、文学的引用に彩られている。カルヴィーノの、『木登り男爵』を思わせるシーン(おそらく民話にあるのだろう)、狂言回しのような映画監督風の初老の男が、ホテルの前で、観光客の女性に聞く。「レオパルディという詩人を知っていますか?」知らないと女性は答える。男は、右手を高くあげ、「ダンテがこのくらいだとすると」、次に、左手をそれより数十センチ低くあげて並べ「レオパルディはこのくらいだ」。女は答える。「ずいぶん偉い詩人なのね」

 1928年にフィレンツェを訪れた和辻哲郎は、幼稚園児くらいのコドモ・ファシストが、「ファッショ、ファッショ」と旗を振りながら行進していく場面を広場で目にして、そのかわいらしさにびっくりした様子を、『イタリア古寺巡礼』に書いている。ことほどさように、ファシズムは地方都市の生活に流れ込み、緩いやり方で人々を支配していく。お祭りとファシズムが溶け合っていく。そこを断固描いたのが本作であるとも言える。

 

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