現象の奥へ

【詩】「演出」

「演出」

高校で演劇部に入ってしまい、ベケットに出会ってから演出家になりたいと思うようになり、
大学でも演出を専攻した。以来、五十年近く演出について考えてきた。
ゆえに、なにを見るにも、演出という観点から見てしまう。
すると、多くのひとが絶賛している、『ファーザー』というイギリス映画が演出的欠陥が見え、
まったく面白くなかった。聞けば、
それは最初舞台であったという。脚本と演出を担当したひとの「自伝」であり、映画でも監督を務めているという。
ボケ老人の視点から、
現実の人物が、彼が認識しているように、
いろいろな人間と入れ替わったりして見える。
娘であった女優を、べつの女優が演じたり、
娘の夫である男優が、べつの俳優によって、
関係も夫から恋人へと変わって演じられる。
結局、オチは、主人公の男は、介護施設(といっても個室で、日本よりだいぶ条件がいい。アメリカ映画でも、老人ホームや施設は、日本より条件がいいように見える。それはだいたい心地よいホテルのようである)
「名優」アンソニー・ホプキンス演じる、アンソニーは、結局、介護ホームにいて、担当の介護士が、娘に見えたりしていた──ということである。その部屋の窓からは、すばらしい緑の公園が見え、自分を木に例えて老人は、「葉や枝がとれていって真っ裸になっていくようだ」という意味の、「印象的な」台詞を言う。
この映画を観た観客の多くは、自分がああなったらどうしよう、恐ろしい、と書いている。
私はそこまで感情移入できなかった。
なるほどこの映画は、同じ構造を持つ構成でも、舞台ならそれなりに魅力を発揮できたかもしれない。しかし、
これは、二次元の映画である。三次元の舞台ではない。
ひとはよく、そのあたりを混同して、ただ「物語」に引き込まれる。
まるで、三次元を描いている絵画と、写真を描いている絵画を、
同じように思い込んでいるように。
ひとは物語のまえに、空間感覚を失う。
どうようなことは、ベルクソンも示唆しているのではないか?
私はブログの、匿名の訪問者に、
「こんなこんな怖い映画を、『ボケ老人を美化している』というのは失礼にもほどがある」と書き込まれた。
失礼にもほどがあるのは、どっちだ?
自分と違う意見の見知らぬ他人をいきなり責めるのはどうかしている。
ことほどさように、
ひとは、「物語」の前で感覚を狂わせていく──。
 
 三代の栄耀(ええう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)に成(なり)て、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。
 芭蕉みずからを「放浪歌人」と演出す。