現象の奥へ

【短編を読む】「安全マッチ」(アントン・チェホフ)

「安全マッチ」(アントン・チェホフ作、宇野利泰訳、翻訳原稿400字詰約60枚、『世界短編傑作集』(江戸川乱歩編、創元推理文庫所収、なお、膨大な短編を書いたチェホフゆえ、筑摩書房の全集には入っていない)

 

 フランスの推理作家エミール・ガブリオを耽読したチェホフゆえ、本編は完全なる推理小説と言ってよい。オチも決まって笑わせる。しかしながら、細部の描写は、さすが文学者である。本編には、殺人事件の手本として、ドストエフスキーの名前も、ガブリオの名前も出てくる。当時の「現在」での意識を表出して、しかも、時代を超えた文学作品となっている。この推理文庫のシリーズの第一集で、年代順に編集されていて、いちばん古いのが、ウィルキー・コリンズの「人を呪わば」であるが、二番目が本作である。この両者は、そのユーモア、皮肉な口調、雰囲気がよく似ている。立場上「部下」が図々しく自己主張するところも似ていて、思わず、思い出し笑いである。チェホフといえば、格調高い作品ばかり書いていたわけではない。筑摩の全集に入っている、「黒衣の僧」なども、幻想的な今でも通じる作品である。