現象の奥へ

ミシェル・フーコー『臨床医学の誕生』

臨床医学の誕生』(ミシェル・フーコー神谷美恵子訳、みすず書房、原題『Naissance de la clinique』1963年刊)


フーコーのレビュー作、ビンズワンガーの『夢と実存』の、本文より長い序文、と重なるところのある著作である。つまり、医学はどこから科学か? ことに言葉を使った分析の精神医学はそれを考えるには格好の素材である。

フロイトが創始した精神分析は、当然ながら科学ではない。フロイトの創作である。「患者」に夢を語らせることによって、なんらかの「分析」を試みる。この方法を継承したのが、アマチュア評論家が大好きなラカンである。これは言語の妄想であるから、どうとでもなる世界である。一方、ビンズワンガーは、言語というものを、ソシュールから出発して考え、精神医学を科学として考えようとした。

ひとことに、精神分析とは、患者がいかなる言語を使い、いかなる状況を生きていたかによって、夢、あるいは、それを母語で語ることは、全人類共通である。そんなものを一律の型にはめることはできない。

幼稚な人間は、フロイトの著書どころか、そこから切り取られた解説書のような本を読んで「おすすめ〜」(笑)とか言って、なにか精神分析の大家にような顔をしている(笑)。

問題は、著者からの引用を自分の頭で考えたと思い込んでいることである。いかなる結論が出ようと、まず精読し、かつ、自分の頭で考える、ということである。

本書は「臨床医学」(=病院への収容)への歴史、成り立ちを研究した本ではない。序文にあるように、「この本の内容は空間、ことば(ランガージュ)および死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである」

しかし、フーコーの著書はだいたいいつも、それらに関するものである。頭をよく見せたくてなのか、じかにその表現と向かいあわずに、なにか常に「正解」のようなものを探す。大河ドラマを毎回楽しまず、集大成のようなものを遅ればせながら探して、エラそうな感想を口にしていた人がいたのに呆れかえった。この人の生きていた道が、すでにしてそうしたものだろう。ご愁傷さま(笑)。

本書を読むと、哲学とは常に文献学なのであり、そういう地味な作業なくて、自分勝手な表現「××性」などと、「性」とかをつけてもなにも思考したことにはならない。ニーチェだって、文献学者なのである。