現象の奥へ

【詩】「あるいは、しなびたオレンジ」

「あるいは、しなびたオレンジ」

ミシェル・ピコリが朗読する
ボードレール悪の華』を、午前三時頃?ふとんのなかで
iPhone
からイアフォンで聴きながら、眠ってしまった。
目が覚めた時は翌七時四十分だった。
大急ぎで起きて朝食の準備だが……
そのあいだ、その朗読について考えた──
意識のないまま、脳内に、
ずっとピコリの朗読するボードレールが流れていた──
しかし、ほとんど「意識はない」(笑)
いつも感じるのは、なぜピコリは
こんなにしゃがれた声なのだろう。
まるで瀕死の老人(には違いないが)が死の間際に、
これだけは言いたいと、最後の声をふりしぼって、読んでいるようだ。
しかし、その朗読は、ボードレールに似合っている。
ごろつき、ハイエナ、ぼろ鼠、
なんと豪華な眠り際なのだろう、
フランスの名優が耳元で、ボードレールを読んでくれているのである、
「読者へ」というはじまりの章、
いきなり、ごろつき、と来る。
この世の中は、という意味か。
ひさしぶりに聴いてみたのだが、今後しばらく、こうして、
パリの暗い舗道を歩いてみるのも悪くない。
T.S.
エリオット曰く、
当時のフランスにおいて、ボードレールの理解、評価は、
十分でなかった。ボードレールはずっと先をいっていた。
そして、ボードレールは、詩より散文の方がいい。
おそらく黒人との混血の愛妾を、
「枯れたオレンジ」と表現したのだろう。
それは、ピカソの「軽業師」のように、
芸術そのものとなって、
ニューヨークの方へも流れていく。
私はこのゴージャスな「子守歌」を
脳内で満喫する。
「う゛ぃえいおらんじゅ」とピコリは発音していて、
それが毎回、生きたなまのオレンジより
オレンジ色の深さを増して、ひかり輝くのである。
詩は、表面的な装飾的な観念の言葉を完全に拒絶するだろう。