現象の奥へ

【短編を読む】林芙美子「晩菊」

【短編を読む】林芙美子「晩菊」(四百字詰め約40枚、初出「別冊文藝春秋」昭和23年11月第9号)

張りとほす女の意地や藍ゆかた (杉田久女)


On ne naît pas femme: on le devient. (Simone de Beauvoir "Le deuxième sexe,Ⅱ")
(ひとは女に生まれない。女になるのだ。(シモーヌ・ド・ボーヴォワール第二の性Ⅱ』)

久女の句も、ボーヴォワールの『第二の性』も、高一の時、演劇部の顧問、黒川喜七先生に教えてもらった。林芙美子の小説を読み、この二つが思い浮かび、ここに「集合」することになった。ボーヴォワールの有名な文章は、当時の新潮社の文庫本では「1」に入っているが、実際は第二巻の冒頭にある。当時の翻訳で、都合のいいように並べ替えられたとみる。これは一時問題になり、ちゃんとした順序の翻訳が出た。このことを当のボーヴォワールは知っていたのか? 認識論的に仕上げられた本書から見たら、ひどい暴挙ではないのか?

さて、林芙美子の作品である。日本語の勉強のためでなければ、こんな「古くさい」小説など誰が読む? 私は小説家としてデビューさせてくれた編集者に「あんたは日本語がだめだ」と言われ、日本語修行のため、日本文芸家協会編集の「現代短編名作選」(講談社文庫であるが、現在古本屋でも入手困難である)を教えられ、順に読んでいる。ほんとうは、数編読み、そのなかの一篇を、全文筆写するように言われたが、そんなヒマはない(笑)。

この短編は、「女」についての小説である。ここには、終戦直後の「女」の生き方、心理が活写されている。ときに、「男」の心理も混じり合う。この頃、「女」の生きる道は、二つ、「かたぎ」か「おみず」かである。生まれが貧しければ、水商売系の道へがぱっくり口を開けている。この小説は、後者の道をきた女、「きん」の「引退後」の生活と心理が描かれている。小説は、いきなり、「昔の男」から尋ねてくると連絡が入ったところから始まる。そのため、いろいろ「準備」をする。以前の愛人なれど、すでに五十六歳となっている「きん」は、お風呂に入り、お肌のお手入れなどする。そのあいだ、あれやこれや昔のことが蘇り、これまでの生活が紹介される。いわゆる男性作家、白樺派かなんか知らんが、のように、たんなる感慨では終わらない。淡々と(でもないが)心理を綴りながら、かなりドラマチックな展開になっていく。もちろん心理のうえで、このあたり、例の「猿之助事件」をも彷彿とさせる。題名は、白樺派であるが(笑)、作中、「晩菊」なる言葉も物も、一度も出てこない。なるほど季節は晩菊の季節である。当時44歳の芙美子は、56歳の「おみずの道を歩んできた女」の心理を描き、47歳で死去する。志賀直哉や、芥川と並んでもいい筆力である。主人公の「きん」も「おみず」ながら、なかなかの読書家で、西鶴の作品などが引用される。「まきあげ女子、りりちゃん」が、ユーチューブ利用で、数千万円をだまし取り、お縄になり、裁判では、「これからは世の中のために弁護士になりたい」とのたまってしまう時代である。確か、「天誅!」と叫んで家元を襲った花柳幻舟も、服役後、弁護士になるために勉強していた。果たして弁護士資格として、「前科があってもよかったのか?」それは知らない。 男は、

「いく時代かがありまして、茶色い戦争ありました〜♪」と、のんきに歌ってりゃいいいが(笑)。