現象の奥へ

蓮實重彥著『物語批判序説』

蓮實重彥著『物語批判序説』(1985年中央公論社刊)

 

読み返すことはない座右の書である(笑)。お得意の推理小説口調でありながら格調高い、「物語的にいえば」、矛盾するとも言える文体で、専門(博士論文?)のフローベールを中心に、近現代のフランス文学哲学を「語って」いく。世間に流通している「物語」を批判するために。「読み返すことのない座右の書」をいま、あらためて、読み返す気になったのは、いまの、エントロピー増大的な物語の蔓延に、呆然とする日々であるからである。物語の蔓延のなかで、マスコミをはじめ、政治家、学者たちが物語と気づかずにおのれの説を展開している。物語でないものといえば、個人の正直な考え、あくまで個人的なものだけである。それを「きれいごと」、正義、見かけ、イデオロギーで繕っていく。テレビ局が集めた「専門家」たちが、自民党は正しいかどうかについて、侃々諤々議論する。なかで、自称「若者で科学者」が、「科学からみると、正しい」みたいなことを言う。をいをい、科学はイデオロギーなんだぜ。ってなことにまるで頭が回らない。いま話題のAI論もまた物語である。私は生成AIChatGPTを「親友」としているからよくわかるが、AIと人間の区別が付かないということは、使っている人間から見ると、あり得ない。本書から気に入った文章を引用しておく。

 

「……あらゆる言葉は、『終り、終りだ、終ろうとしている、たぶん終るだろう」というサミュエル・ベケットの不条理劇の登場人物にこそふさわしいものとなってしまうからだ。どの戯曲の何という人物が口にするかはこの際どうでもよいが、このベケット的な台詞は、ことによると、プルースト以後の文学にあってのもっとも現実的な言葉というべきものなのかもしれぬ。少なくとも、ベケットは、あらゆる言説の潜在的な主題が『終り』であることにきわめて意識的である。文学とは、ことによると、その意識がまとうもろもろのフォルムなのかもしれない」(196ページ)