現象の奥へ

詩誌『納屋』第一号

詩誌『納屋』一号(2024年4月9日発行、同人:金井雄二、坂多瑩子、田島安江、細田傳造)

友人の細田傳造氏に「こちらからせがんで」送ってもらった。一ヶ月以上前に出ているはずだが、細田氏にはその旨聞いていたので、私としては、「まだかなー?」と心待ちしていた。同人も「名だたる人々」である。誌名も、William Faulknerの「BARN BURNIG」(「燃える納屋」)や、村上春樹の短編「納屋を焼く」を思わせ、文学の香りが漂う。ひそかな期待を抱いた──。しかしながら、ざっと見たところ(あるいは見落としているかもしれないが)、こられの作品に関する言及はなかった。もしかして、ただの納屋? いかにも(笑)。の内容であった。私と関わるとろくなことはないので、傳ちゃんはひやひやしている。ごめんねー。端正な装幀である。これで500円は安い。
あ、いけね。言及、傳ちゃんだけに留めておくのだった。傳ちゃんの詩は、傳ちゃんらしさを失っている。勢いもなければ、ウイットもない。言葉がバラバラ踊っている。これまで見た氏の作品中サイテーである。それがどのような原因か、それは知らない。あと、4回も、このようなことを繰り返すのですか。今は、この4人より、名前もキャリアもない人々が、どんどん詩誌を創刊している。ただこの詩誌より、装幀は金がかかってなそうである。それでも文学のかけらのようなもは感じさせる。この時代、お金があるって、ある意味、不毛なことなのかもしれない。

 



サルトル『ボードレール』──ボードレールから遠く離れて

サルトルボードレール』(1956年、人文書院刊)──ボードレールから遠く離れて

 ボードレールの詩については、彼の「実存主義」を証すために引用されているのみで、文学的鑑賞とえいては、いっさい立ち入られていない。結局、サルトルは詩音痴であり、そういう嗜好はまったくなかった。ゆえに、彼の文章からは、詩的なものさえたちのぼってこない。この論が、ジャン・ジュネに捧げられているように、サルトルの好んだものを、俗な言葉でいえば、「恐い物みたさ」(笑)であり、物の見方も、「不適切にもほどがある」(笑)のである。やぶにらみのやせっぽちの「最低ランク」の娼婦を愛し、それは黒人女への執着の前ぶれとなる。サルトルが好んで分析したがったものは、犯罪者、人生の落伍者、今生きていたら、大谷翔平の元通訳、水原一平被告について書きたがるかもしれない(笑)。要するに、そういうものとして、ボードレールを扱っている。
 一方、サルトルより20歳近く年上ではあるが、T.S.エリオットは、論理的にボードレールの文学を分析した論を書いている。今から見れば、エリオットの方が新しく、今でも通用する。それは、あえて構造主義と名乗らなくても、十分に構造的なものである。エリオットが、「ボードレールは不幸なことに、フランスではその時代理解されなかった。それは、ボードレールがその時代より進んでいたからである」というようなことを書いている。このサルトルの文章を読むと、そのことがよくわかる。
構造主義は、レヴィ・ストロースの構造的文化人類学から始まる。その萌芽は、ソシュールにある。サルトルは、ここのあたりが完全に抜けていて、「実存」などといいながら、結局は、ブルジョワ世界の性根を叩き直すことができなかった。……ボードレールから遠く離れて、そういうことを思わせる本であった。

 



【詩】「ヘレナの頭蓋骨」

「ヘレナの頭蓋骨」

 

妻あるオデュッセウスも守る会に加わりトロイア

世界一美しいと言われるヘレナのため

 

戦争は始まり終わったあれは

なんだったのか数百年経ち今おまえが

 

踏みしめるものはその女の頭蓋骨それでもまだ

世界は新しく遠い未来の災厄など知らない




 

【詩】「ベケットのホロスコープ」

ベケットホロスコープ

地方のオバチャンが、おセンチな文句を並べ
悦にいって、それが詩だと信じて、
同好の士、「大御所」に媚びまくり、
しかし態度は「上から目線」が滲み出る(笑)
自らの年齢を大いばりで公表し、
64歳なんて公表するの勇気(笑)に感服するが、
なぜにそんな勇気があるのか?
勝手に推論するに、それでも若い年齢の自覚がある。
それは、配偶者が高齢だから(笑)
邪推するに、配偶者は金持ち、高学歴、社会的に高いとされる地位
この配偶者は二度目だと、これも公言している。
普通、世間の人が、どちらかといえば、あまりおおっぴらに
いいたくないことを鼻高々に(?)公表している
SNSでね。あたしゃべつに、プライバシーを探っているわけではない。
そこに書かれてあったので、
「ふーん……」と思っただけだ。
悪いけど、ホンネをいえば(いいか、本音を言ってやるのは、私の「詩」のなかだけだ!)
このひと、根っから勘違いしている。
生まれた時から、ずーーーーっと。
勘違いして生きてきて、
それで、「詩人さま」を自称し、
300万円とか言われる
詩の(いちおう)「老舗」出版社で詩集を出すとか。
3月頃から大いばりで、「5月に出る」とか公言している。
いまだ、その出版社のホームページの「新刊案内」には、ない。
ここは、とくに「いちげんさん」の本は、校正までは終わっても、
遅れに遅れることで知られている。
昔は、「いちげんさんお断り」の態度をしていたが、
きょうび、そうも行かなくなって、金さえ出せば、
誰でもOKのように見える、それともいうのも、出た本を見れば、
底なし沼のようにレベルが下がっている(笑)。
まー、
つーか、
ベケットの処女作、コンクールで入賞した、「ホロスコープ」という詩は、
こんな調子でできている。
おっと、題材は、
日本の地方の自称詩人のオバチャンではなく、
デカルトだったりするけどな(笑)。

 

 

Kazuo Ishiguro "The summer we crossed Europe in the rain"

Kazuo Ishiguro "The summer we crossed Europe in the rain"(Alfred A.Knopf New York 2024)

ノーベル賞作家カズオ・イシグロの最新作、にして詩集。レナード・コーエンのような歌にするための歌詞集。
イタリアの日記漫画家、ビアンカ・バニャレッリのイラスト多数。イシグロは小説家になるまえにバンドをやっていて、歌詞をたくさん書いていた。
ひとつひとつが独立した歌でありながら、全体がひとつの物語として展開する。灯りを消せば、すべてが終わる──旅。

 

 

 

【詩】「時間の終わり」

時間の終わり」

「ぼくは書く、おまえの名を、リベルテと」
という詩句がときおり頭をもたげる。
オデュッセウスが乞食に身をやつして故郷へ帰ったとき、老犬だけはすぐに気がついて、
安心して死んだ。
のだったか。
もう覚えていない。
ひとの生を通過する時間のうちで、
覚えていないことの方が多いにちがいない。
墜ちていくアリスのように
われらはブラックホールのなかを落ちていく
さよなら
さよなら
さよなら
葉っぱたちが歌っている、
とは、クリステヴァの教え。
と、井筒俊彦先生は高野山での
講演でおっしゃっていた。
そう。
時間は終わるんです。
人間が終わるように。

 

『センスの哲学』千葉雅也著

『センスの哲学』千葉雅也著(2024年4月、文藝春秋刊)──読まずにすませろ(笑)!

 このテの本は、浅田彰にはじまり、東浩紀…などなど連綿と出されている。根っこは、おフランスの「現代思想」である。「現代思想」という言葉は、「現代詩」と同じ、日本だけのものだと思うが。だいたい、東大とか京大とか、旧帝国大学系(古い(笑))国立大学で哲学を学んだ方々である。この方々は、勉強が得意なので、哲学はもとより、文学、芸術。なんでもできる。だからエラソーに、啓蒙的態度で、エビデンスと参考文献を並べまくり(お約束のように「ラカン」なんかが入っている(笑))、「センス」という、論理的に説明のつかない感覚を、さりげなく学術的に「説明」してみせるのである。こんな本を読んで、感覚的な世界の不思議を学び、マジで「センスがよくなりたい」と思うなら、同じ東大出でも、茂木健一郎の本を読んだ方がはるかにためになる。東浩紀もそうだが、結局、どんなに「ポップな」口調であろうと、結局、学術論文の枠を逃れることができない。たとえば、石川淳吉田健一のように、自在に楽しむということができない。ゆえに、おもしろくないし、読後感も、インスタント食品を食べたあとのような不満足感が残る。
 大手出版社で、世界文学全集の仕事をしていた友人が、仕事とはべつに、東大権威の某氏訳、ディケンズの『バーナビー・ラッジ』を辟易しながら読了して、「学者の訳はダメだ!」と言ったことをよく思い出す。
 ま、そういうこと(笑)。