現象の奥へ

たまたまの吉増剛造詩集

「たまたまの吉増剛造詩集」

 

吉増剛造詩集」全五巻のうち、たまたま本棚にあった二巻、『黄金詩編』(1964-1969)と、『わが悪魔払い』(1972-1973)。この二冊は、できが全然ちがう。あとの方がひどすぎる。ことほどさように、この詩人は劣化してきた? 装幀、菊池信義、装画、加納光於。版元、河出書房新社。ゆめのまたゆめのものがたり(笑)。



「別れ、あるいはカルヴィーノの黄昏」

「別れ、あるいはカルヴィーノの黄昏」

「黄昏が別れをためらわせた」とボルヘスは書く。

遠く近い砂漠の、

Duneと呼ばれたその星の天上では、

イタロ・カルヴィーノが月までの距離を測っていた。

ボルヘスが測っていたのは森の昏さで、

今宵、いろいろな言語のカルヴィーノがあるが、

今宵はこの言語で読まねばならないだろう。

見よ、鈴木保奈美が、朝ドラで

中原中也をこれ以上ないほどの

うまさで朗読している。

「さようなら、さようなら」

さようなら。

主人公の夫の母親である彼女は、

なんのために中也を持ち歩いているのか?

 

 

「見世物」

「見世物」

三河一宮の砥鹿神社のお祭りにはいつも見世物小屋がたって、
ものものしい看板が観客を
驚きの国へと連れて行く。
大学病院の白衣を着た医師と看護婦
が驚きの表情をしている絵。
一つ目の赤ん坊。
その異形にどんな論理も法律も摂理も
持ち込まれない。
ただ見る、というより、覗く。
そこで作られる「場」を形成するひとびとにも、
日常はあって、そこには交わりはなくて、
ラフォルグのような純粋な詩人がいなければ、
号泣ということばを食べ尽くすのみ。
年にいちどが、やがて、追憶へと流れていく。



 

【昔のレビューをもう一度】ゴダールの『アルファヴィル』(1965年)

ゴダールの『アルファヴィル』(1965年)

『ALPHAVILLE』(Jean-Luc Godard, 1965)

「続編」の、「新ドイツ零年」の方が有名だと思われる、もとになったフィルムだが、もともとハードボイルドスターの、エディー・コンスタンスが、地球外の星のアルファヴィルという都市にやってきて、なにやら「調査」する。その都市を牛耳っている「博士」と接触を図ろうと、まず彼の娘の、アンナ・カリーナ扮するナターシャに接触する。すべてコンピュータの「ロジック」によって管理されるアルファヴィルは、コンピューターの「ハル」によって支配されていた、『2001年宇宙の旅』を思わせる。両者とも、近未来を描きながら、すでにして2017年を生きている人間の目からすると、ファッション、メカニズムの設備、建築物、古びている。しかも、ドラマの手法も荒い。

 たとえば、クリスファー・エフロンの『ダンケルク』などからすると、隔世の感がある。村上春樹は、いまだ、こうした、アメリカ産ハードボイルドの手法を用いているのだが。つまり、「探偵」は、悪い世界に住んでいる女を「救出する」。それはとりもなおさず、女が「愛に目覚める」時である。すべコンピューターのロジックに支配される非人間的な世界の育った女は、「探偵」によって愛を知るのだが、そのへんがよくわからない。ほんとうに本作は、ありがたいのか(笑)? ゴダールはそれへの反省から、『新ドイツ零年』を撮り、探偵レミー・コーションを、すでに壁の壊された旧世界の、小野田寛夫中尉のように「出現」させねばならなかったのではないか? 「続編」などと言いながら、両者はまったくべつのコンセプトの映画に見える。後者では、色の美しさや画面の斬新さが印象的だ。

 このたび、ドイツ製のDVDをAmazonで購入したが、家に、アメリカ製のVHSがあった。「未来都市」などと言いながら、登場人物たちがしゃべっているのは、まぎれもないフランス語で、ホテルの受付なども、パリを思わせるのが、愛嬌か。字幕は、英語と複数のヨーロッパ語から選べるが、英語字幕でも台詞が短いので、日本語字幕を見ているような気がしていた。フランス語もほとんど聞き取れるレベルなので、なんの違和感もなく見ていた。

 

 





 

R.I.P Godard

 

ゴダールキャメラを向ければレマン湖のほとりの平和な光景はあらゆる物語の舞台装置へと変容してしまう。──『ゴダールの決別』(蓮實重彥『映画狂人日記』P150)

 

原題『Hélas Pour Moi!』

日本語で言えば、

ああーなんてこった!

みたいなものか。まだ、

ドパルデューに、

色気のような片鱗が残っていた時代

いや、これ以上太りきれないほど太ったいま(といって、私はいまは、見ていないのだが)でも

色気をたたえているだろう

フランス男

そいつが湖のなかで

誰かを抱きかかえていた

ような

今となっては

記憶などどうでもよく

この俳優は最初

カフェ・テアトロに出ていたと思う

いつのまにか、

「たったひとりのブーム」と

『TIME』だったかで絶賛特集を組まれるほどになり、

Hélas! Hélas!

大スターになったのちも

誰だったかな、誰か大スターの葬式に

革ジャンにオートバイで来ていたっけ

フレンチ男ってやつは

そういうやつだ。あの、

マクロンにしたってな。

それで、水の滴る女を水の中で抱き上げていったけな

レマン湖で。

神と寝てしまった女とか

そういうハナシだったかな

問題は景色ではなく

視線

いまは、熱海の崖のプラスチック片が含まれていたという

盛土

その下は深くえぐれていた

谷、

ささやかな湧き水があったという

その三角形に眼がいく

Hélas! Hélas!

埋め立てられたものは

視線!

 



 

 

 

倫敦塔

「倫敦塔」
漱石のエッセイ、『倫敦塔』を読み、そこが拷問室であったことを知り、見にいった(地下鉄(チューブ)の端っこ)が、すでに入室可能時間は終わり、なにかの祝典で、パディントンの明かりが取り巻いていた。2013年11月のことだった。私にとって、ロンドンは、物語の国。
R.I.Pクィーン・エリザベスⅡ




 

【【昔のレビューをもう一度】「クィーン」

【昔のレビューをもう一度】2007年4月14日公開

『クィーン』
THE QUEEN
104分2007年4月14日公開
「Dignity(気品)」

 本作を観ると、「立憲君主制」とは、いかなることか、よくわかる。その点、わが国も、同政体をとっているのだが、果たして、ほんとうの立憲君主制なのだろうか?と疑問に思う。 
イギリスは、立憲君主制でかつ、民主主義の国。それを女王はよく理解している。首相になる人物もよく理解している。
しかも、王室にも家族がある。それを詳しく描いているのも面白い。日本ではとても無理だろう(笑)。
 このたび、「ほんものの」(笑)エリザベス二世がアメリカを訪問したが、ブッシュ大統領は最大級の正装、「ホワイトタイ」で、ディナーに臨んでいた。一方、エリザベス女王も、最高の正装、失礼ながら、どこかの国の皇室の方々におかれましては、そういう装いをなさっていらっさるところを見たこともないような、すばらしい装いをなさっていらっさいました。ただきらびやかなだけでなく、センスもすばらしいように思った。御年80歳。
ヘレン・ミレン(私の記憶では、セクシー派の女優であったような……)演じるエリザベス二世は、ダイアナが死んだ年には、70歳であったのだから、60歳をちょっと出たばかりのヘレン・ミレンには老け役だった。70歳の女性のような歩きっぷり、しかし、姿勢は女王然として……。真のDignity(気品)というものを体現していた。 
 保守は保守でも、伝統の厚味というものを見せつけられた一作である。イギリスは、開かれている!