現象の奥へ

【詩】「愛皇帝暗殺」

始皇帝暗殺

風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還

葱白く洗ひたてたる寒さ哉(芭蕉
易水に根深流るる寒さかな(蕪村)

おのれを鼓舞するため、
石に刻まれた言葉は、
詩となり、
日本まで来た。
海は遠く、
葡萄酒色。
彼らはホメロスが見ていた、
その色を知らなかった。
暗殺とは、
東洋で生まれた
詩。

 

 

 

【詩】「地獄で待ってろクソじじい!」

「地獄で待ってろクソじじい!」

 

某じじいの詩人が、じじい皆殺しの詩を考えて、

武器なしで言葉だけで殺したいと。

氏は、「武器」のことを、ヤクザことばの「チャカ」を「茶菓」と表現していた。なにか、ヤクザのように残虐でありたいけれど、そこまで下品になれなくて、悩んでいるようだった。

チャカという言葉は、一昔前のやくざことば、『仁義なき戦い』のような。仁義があってはいけないのだ。

それに一昔も、二昔も前のハナシだ。

いまは、仁義など死語だ。チャカも当然死語だ。

詩人氏は、じじいは、自分ひとりでたくさん。風通しをよくするため、世界中のじじいを殺したいとか。

現実に、世界中に、いったいじじいが何人いるのか?

次々じじいを、なぐり殺していくことを「妄想する」。

わかった、わかった、じーさん、さー、おとなしくおうちに帰りな。

時間は激しく流れ、悪も善も、やさしさも冷酷も、混じり合って、

ふと見上げれば、

若いままの菅原文太が、

こっちを見て笑ってる。そう、

あんたに欠けているのは、

固有名詞。

 

ビクトル・エリセ『瞳をとじて』

ビクトル・エリセ瞳をとじて』──記憶とは動き続けるもの

92年の『マルメロの陽光』で、ビクトル・エリセは、脚本を作らず、最低限の設定で、画家がマルメロの木と向き合い、描いていく様子を撮った。このとき、画家との了解以外、プロデューサーも決まっておらずに撮り始めたという。途中で資金が尽き、ちゃんとしたカメラやフィルムも調達できず、友人からもらったベータカムでとり続け、ビデオも厭わないつもりだったという。その時の経験は、形式としての映画、物語さえも超えて、ただ「撮る」という行為を通して、時間と光景、現実のすべてを物語化することを体得したと思う。
今回の『瞳をとじて』は、それをさらに深めている。物語はあるが、ストーリーではない。ただ映画をめぐり、記憶へと遡っていく。ついに彼は、記憶とは、ただ脳裏に止まっているものではなく、絶えず時間とともに動いていくものであるということを「目に見える」形にして見せた。わけのわからない館、その主、その娘を探してくれと頼まれる探偵のような男。あたりはブルーグレーに霞んでいる。得体の知れないような中国人の召使い。その上海にいるという娘も中国人の血を引いている。それは、劇中映画の中の物語(ストーリー)であった。実は、行方不明は、娘の行方を捜すのを頼まれた探偵役の俳優の方であり……。主人公の映画監督は、その行方不昧の俳優の男(親友だった)を探すともなく探している──。その俳優には娘がおり……。撮っていた映画は上映されることもなく、映画監督の男も、人生を中断したかのような生活を送っている。テレビのドキュメンタリー番組をきっかけに、親友の俳優の跡をたどろうとする。記憶によって。偶然がかさなり、その友人の俳優が生きていることを知る。養護施設の住み込む労働者となっていた俳優の男は、記憶を失っていた。その男の記憶を蘇らせるために、廃館となった映画館で、上映が中断されたままの映画が上映される。冒頭の、奇怪な館の老人の話が始まる──。よく考えてみれべ、この映画では、人々の事情はなにも明かされていない。ただそれらしいことをほのめかすにすぎない。おそらく、人生というか、人間の生とはそんなものなのだろう。エリセは、ゴダールよりも鮮やかに、「Hélas! pour moi!」(仏語で、エラース、プル、モア「なんてこった!」。ゴダール監督、ジェラール・デュパルデュー主演『決別』の原題)と言ってみせる。ボルヘスの映画も2本考えたというが、「まだ」83歳なので、これからが楽しみである。映画とは何かを映画をもって教えてくれた本作のような作品に、お遊びの「星印」は、似合わないだろう。


土井善晴『味つけはせんでええんです』(ミシマ社)

土井善晴『味つけはせんでええんです』(ミシマ社)

「料理して食べるという営みにあるのは、栄養の摂取、食の学び(マナー・知識)、空腹を満たす満足、おいしさの楽しみ、人間関係を深めるという目的だけではありません。人生にかかわるあらゆるものの起源です。あまりにも日常的な、その営みは、どんなふうに精神とつながるのか。あらためて考えてみたいと思います」(土居善晴『あじつけはせんでええんです』(ミシマ社)

(本の写真を載せてそれで満足している光景を多々見かけるが、それでは内容がわきに回ってしまうので、あえて写真は載せない。出版社のミシマ社は、その昔、茂木健一郎の、なかなか内容のある本も出していて、注目していた。)

 

【詩】「高村光太郎」

高村光太郎

ふつう、
月が出ている、とか、
星が出ている、とか、書く。
しかし、高村光太郎は、
「火星が出ている」と書いていた。
そんな詩を、料理研究家土井善晴氏のエッセイ集、
『味つけはせんでええんです』に引用してあった。
そういや、中学生の頃、高村光太郎を愛読していた。
長い文章を読むのが苦手で、読書感想文に困って、
そうだ、詩ならすぐ読める、とひらめいて、
「レモン哀歌」という詩の感想文を書いた。
担任の先生に評価されて、全国新聞コンクールみたいな賞に出してくれて、
二位をもらった。確か賞品は、万年筆だった。
テレビでは、木村光一が光太郎に扮し、佐藤オリエが智恵子に扮し、
智恵子抄」というドラマをやっていた。
メロドラマである。やたら、キスシーンが多かった。
「火星が出ている」という詩は非常に難しい。
なにが書いてあるかわからない。
要するに私は、もう詩が理解できなくなっているのだった。


【詩】「紫式部日記」

紫式部日記

まず大きな疑問は、古代に、
自我が、存在したかどうか。
平民は、穴ぐらのようなところに住んでいた時代である。
紫式部日記」なる薄い書物は、
一条天皇中宮、彰子が出産のために実家である、
土御門殿に帰り、安産を祈願する僧たちの読経の声が何日も、
交代で続けられているところから始まる。
「死があたかもその季節を開いたかのようであった」
と、堀辰雄の『風立ちぬ』は始まるが、
僧たちの読経の声が、
あたかも、秋という季節を開いたかのようであった、
と、私なら書くだろう。
仮に、後世、式部と呼ばれる女は、
日記のなかで、
「自我」のようなものを覗かせる──。
フロイトもびっくりである。
そうして、柄本祐扮する藤原道長とは、
決して恋仲ではなく、雇い主と従業員の関係である。
道長は、倫子という妻がおり、二人の娘が彰子である。
この土御門殿も、倫子の邸である。
道長は、式部が、作品を書いていることを知っており、
書きかけの途中で、彼女の部屋に侵入し、
その先品を盗み出す。
その悔しさから、式部の自我のようなものが立ちのぼる。
オミナエシの咲き誇る朝の庭で、式部は、道長
顔を合わす。
オミナエシを入れて一首」
道長に求められ、式部は……
そこから先は、
てーん、てん、てん……
ほんとうは、道長の情人役の女従業員を
愛した。
同性愛者ではなかったかと、
私は疑う。
白氏文集を愛読した。