現象の奥へ

「太陽と月に背いて」

太陽と月に背いて

見つけた! 何を! 永遠を!
ディカプリオの長い脚。
小林秀雄が卒論の面接で、フランス語で聞かれた。
ランボーはどんな詩人か?
論文の仏文はすばらしかったが、小林は会話が得意でなく、
ランボー、グランポエット。を繰り返すのみ。
私はランボーと聞くと、すぐに、ディカプリオを思い浮かべる。
才気走った童顔。「太陽と月に背いて」、いい題だ。
ランボー破傷風だったかで、脚を切るはめになり、
わーーーっ!!!と悲鳴をあげた。もう、
詩は書きません。ベルレーヌ(だったかな?)
とはお別れです。それから、
眺めたのは、ディカプリオの活躍。ずっと、ランボーだと思っていた。
ランボー、グランポエット!


 

「血まみれピーナツ」

「血まみれピーナツ」

やっちまった、やっちまった、やちまたは、ピーナツのまち、
ではない。もはや、
やっちまった、やっちまった、やちまたは、危ない通学路のまち、
やっちまった、やっちまった、小学生の通学の列に、クルマが突っ込んだ、
だって、舗道もないピーナツ畑の車道を、
小学生が列になって歩いてたんだぜ。
どうせ、私は、ちっこい日本のピーナツより
三分の一の値段の、大粒の中国製の方がすき。
やっちまったのに、髭なんとかって
グループは平気でピーナツの歌を歌っている。
アニソンだってさー。
桑田佳祐が集めた66歳同級生一流
ギタリストたちほどは、持たんだろ。
そこに、愛はないだろう。


 

峯澤典子詩集『微熱期』(2022/6/15、思潮社刊)

 『微熱期 』(峯澤典子著、2022年6月15 日、思潮社刊)──祈りのような言葉

 

このような詩編をも生み出さすことができず、癒やされずに、世の中でわめき散らしている老人も詩人も子供も少女も多い。固有名詞を持たないのか、それらを排除して、抽象的な薄っぺらな現時を書き続ける詩人の内面は果たしてどうなっているのだろうか? この著者にはそういう迷いも悲劇も無縁で、ただ頼りなげな記憶、感覚を頼りに言葉をつむぎ続ける。そう、窓を開けさえすれば、なにかがそっと「私」に触れてくれる。癒やされないあなたのために。祈りのような言葉たち。





「論語に捧ぐ」

論語に捧ぐ」

金持ち奥さまの婆さん詩人と、
その他、二名の詩人が、そのうちの一名の
詩集を海岸の砂に埋め、弔いをしたという。
なんたるおごったことをと、私は思った。
あくまで私のイメージだが、
書物を砂に埋めることによって、
弔いをするというおごった行為が許されるのは、
ひとり、論語のみと思われる。
初めて日本人が読んだ書物。
日本語ではないそれ。
時代が少し経ったのちには、日本人は誰も読めなくなった。
それを読めるようにしたのは、
本居宣長である。
子曰、學而時習之、不亦説呼。有朋自遠方来不亦楽乎。人不知而不憤、不亦君子乎。

 

「アレフ、片隅で光る非存在」

アレフ、片隅で光る非存在」


世界がまだ睡魔と戦っていた頃、

眠りに落ちる寸前に見える光景、

それこそ人間の脳にはめ込まれた原風景であり、

全宇宙の姿と言っていい。

すべての忘却を消すために、

ハムレットはロミオと入れ替わってみようと思った。

幾世紀が過ぎ、薔薇色の迷路はアエネーイスの運命を決めるために回り続け、

誰もが覚えているはずの狂気を帯びた暴君の名前を、

神は消した。

果たしてどの暴君だったか。

それは文字通り、星の数より多かったのである。

ウラジミールとは、永遠の来ないゴドーを待ち続ける

浮浪者であった時代もある。

あるいは、作家であった時代も。



 

 

 

「Oh, Ulysses! 」

「Oh, Ulysses! 」

James Joyce was born in Dublin on 2 February 1882.
He was the oldest of ten children in a family which,
After brief prosperity, collapsed into poverty.
真っ二つに裂けてしまったペーパーバックの、
まだ甘い朝の空気を放つ午前、
Mulliganなる名前ももはやよくある名前と悟り、
とおく里、そうおさとの匂いさえ
牛もーもーは懐かしむ
殺す、のではなく、創る肉を食み、
ゆくぞ、われらがジョイス
売れ行きは気にしない。
誰も読まなくても、
世界はそこにある。
Introibo ad altare Dei.