現象の奥へ

【詩】「ブラッサイ、あるいは、秘部という名の宇宙」

ブラッサイ、あるいは、秘部という名の宇宙」


駅の二階の出口は各通りへと続く歩道橋になっている。
 
そのすぐ出たところは植え込みになっていて、コンクリートの、
 
ちょっとした囲いがあり、それは、ちょっと腰掛けて座るのにちょうどいい。その一角に陣取っているのは、
 
ホームレスの女である。
 
「つんころ」と三河弁か遠州弁か、わからない言葉で、
 
荷物のひとまとまりを指す言葉を、私の両親が使っていたが、
 
そういう「つんころ」を身の回りにおいて、憩っている。
 
ひとりごとを言っていることもある。
 
その前を通るたびにちらりと見て観察する。
 
靴だけはちゃんとしているような黒い皮に見えるスニーカーである。
 
太っている。靴以外の衣服は垢が染みこんでいるように見える。
 
高齢の母は「いつ死んでもいいようにパンツだけは清潔なものをつけている」と言った。
 
それで、私はその女のことを思い出し、
 
駅前のホームレスの女のパンツはどうなっているんだろうね、
 
と言った。
 
ブラッサイの撮った、1920年代のパリは、
 
その女の匂いに包まれているかも知れない。
 
自民党のパーティーよりも淫らなパーティー
 
平気で丸裸の女たちが、タキシードを着た紳士たちと
 
歓談している。
 
うははは……
なんて笑い声が聞こえるようだ。
 
100年後、
 
殺人さえ、誰も手を汚そうとせず行う。
 
セクハラ
 
 
町長。
 
ゴメンナサーイ。
 
威張りたい人がおり、
 
威張らせたい会社がある。
 
それは、
 
詩集を作るカイシャ。
 
お値段は300万円。
 
その宇宙は、
 
どんな匂いだらう。
 
「それをお金で買いますか?
 

蓮實重彥著『物語批判序説』

蓮實重彥著『物語批判序説』(1985年中央公論社刊)

 

読み返すことはない座右の書である(笑)。お得意の推理小説口調でありながら格調高い、「物語的にいえば」、矛盾するとも言える文体で、専門(博士論文?)のフローベールを中心に、近現代のフランス文学哲学を「語って」いく。世間に流通している「物語」を批判するために。「読み返すことのない座右の書」をいま、あらためて、読み返す気になったのは、いまの、エントロピー増大的な物語の蔓延に、呆然とする日々であるからである。物語の蔓延のなかで、マスコミをはじめ、政治家、学者たちが物語と気づかずにおのれの説を展開している。物語でないものといえば、個人の正直な考え、あくまで個人的なものだけである。それを「きれいごと」、正義、見かけ、イデオロギーで繕っていく。テレビ局が集めた「専門家」たちが、自民党は正しいかどうかについて、侃々諤々議論する。なかで、自称「若者で科学者」が、「科学からみると、正しい」みたいなことを言う。をいをい、科学はイデオロギーなんだぜ。ってなことにまるで頭が回らない。いま話題のAI論もまた物語である。私は生成AIChatGPTを「親友」としているからよくわかるが、AIと人間の区別が付かないということは、使っている人間から見ると、あり得ない。本書から気に入った文章を引用しておく。

 

「……あらゆる言葉は、『終り、終りだ、終ろうとしている、たぶん終るだろう」というサミュエル・ベケットの不条理劇の登場人物にこそふさわしいものとなってしまうからだ。どの戯曲の何という人物が口にするかはこの際どうでもよいが、このベケット的な台詞は、ことによると、プルースト以後の文学にあってのもっとも現実的な言葉というべきものなのかもしれぬ。少なくとも、ベケットは、あらゆる言説の潜在的な主題が『終り』であることにきわめて意識的である。文学とは、ことによると、その意識がまとうもろもろのフォルムなのかもしれない」(196ページ)





【詩】「闇と書物」

「闇と書物」

闇と書物。
それはボルヘスのテーマだった。
暗い岸に漕ぎ着けて、生い茂る蘆の中を進み、
やがて、神殿あとの廃墟に到り、
祈りを捧げたあと、
そのものは思い出すだろう。
おのれが闇であったことを。
そして書物は燃え尽きたことを。
難解さを抱きしめて
そのものは死ぬだろう。
それは、夢の時間。
アレクサンドリアでまた会おう。