現象の奥へ

【詩】「紫式部日記」

紫式部日記

まず大きな疑問は、古代に、
自我が、存在したかどうか。
平民は、穴ぐらのようなところに住んでいた時代である。
紫式部日記」なる薄い書物は、
一条天皇中宮、彰子が出産のために実家である、
土御門殿に帰り、安産を祈願する僧たちの読経の声が何日も、
交代で続けられているところから始まる。
「死があたかもその季節を開いたかのようであった」
と、堀辰雄の『風立ちぬ』は始まるが、
僧たちの読経の声が、
あたかも、秋という季節を開いたかのようであった、
と、私なら書くだろう。
仮に、後世、式部と呼ばれる女は、
日記のなかで、
「自我」のようなものを覗かせる──。
フロイトもびっくりである。
そうして、柄本祐扮する藤原道長とは、
決して恋仲ではなく、雇い主と従業員の関係である。
道長は、倫子という妻がおり、二人の娘が彰子である。
この土御門殿も、倫子の邸である。
道長は、式部が、作品を書いていることを知っており、
書きかけの途中で、彼女の部屋に侵入し、
その先品を盗み出す。
その悔しさから、式部の自我のようなものが立ちのぼる。
オミナエシの咲き誇る朝の庭で、式部は、道長
顔を合わす。
オミナエシを入れて一首」
道長に求められ、式部は……
そこから先は、
てーん、てん、てん……
ほんとうは、道長の情人役の女従業員を
愛した。
同性愛者ではなかったかと、
私は疑う。
白氏文集を愛読した。