現象の奥へ

蓮實 重彦 (著)『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力 』──母国語の基礎がなければ何を書いても深い表現はできない。(★★)

『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力 』(蓮實 重彦著、 2006年11月、新装版2018年5月、青土社刊)

 まず初めに、10年前以上の(Amazonの)レビュアーがお二方いらっしゃるだけの本書(つまりは「売れてない」(笑))、拙宅のそこらへんに転がっていた(積ん読の崩壊(爆)ので手にとって読んでみた。奥付を見ると、2006年12月10日第1刷発行とあり、なんと、13年目じゃないか! その後「新装版」も出たようであるが。ええと、まず初めにと書き始めたのは、その二人のレビュアーのお一人が、誤植数カ所をあげていらっしゃいますが、蓮実重彥の本は、誤植の宝庫なのである(笑)。その理由はよくはわからねど、まー、著者が校正してないんですかね〜。
 この著者、おフランス語が達者(?)なのを振り回してか、エラソーなので、エラいのか〜?と普通の読者は思ってしまうみたいで、実は、私も昔はそう思っていました(笑)。しかし今、フーコーの文献をフランス語でほぼ自在に読めるようになってみると、書いていることが、ありがちの紋切り型の思考から抜け出ていない。これが致命的なんです。たとえば、『フーコーと《十九世紀》」という論考で、

「『狂気の歴史』から『性の歴史』の第三巻にいたるその考古学的な構想を通じて、ミシェル・フーコーは、一貫して、『近代』的《moderne》という語彙の使用にある種の居心地の悪さを覚えていたように見える」

 とあるが、すでにしてこういう「見方」が、近代を「出て」いない。バルトだの、ソシュールだの、デリダだのと、十年前の若者が飛びつきそうな名前が出てくるが、それほど深く思考できているわけではない。なぜかというに、一般的には、母国語を「マスター」しないことには、何も深いことは語れないということである。そしてこの人のアタマは、それがすっぽり抜けているんですね。外国の人妻がいかに不倫したかは書けても。この人の論考で優れているのは、やはり、ポルノ映画論ですかね? 文学はまったくだめ。