現象の奥へ

【エッセイ】「隠喩の終わり?」

「隠喩の終わり?」

 
 The NewYork Review of Booksの3/22付のニュースレターで、1978年2月23日に、スーザン・ソンタグの『Disease as Political Metaphor』(『政治的隠喩としての病』)を掲載した、とあって、その全文(?)をタダで公開している。本になったのは、三回分の評論で、題名は、『Illness as Metaphor』(『隠喩としての病い』(富山太佳夫訳、1982年、みすず書房刊)である。本書では、1978年当時の最も恐れられた病気、癌と、さらにその前の、結核に関する、隠喩への哲学的(?)考察が、自在な文学作品を引用しながら展開されている。

 しかしながら、すでに古い感じである。科学的な事実に関する認識がこの40年の間に大きく変わってしまったからだ。ソンタグもあの世でびっくりであろう。「死刑を宣告されたも同じ」と彼女が書く癌は、その一部は、ウイルスが原因であることがわかっている(子宮頸がんなど)。しかも、癌は、不治の病でもなくなって、隠喩力(?)も弱くなっている(笑)。いまや問題は、ウイルスがとって替わり、正体不明、変幻自在のものとなっている。新型コロナウイルスはプラスチックやステンレスの表面に留まり一日生き延び、エアロゾル(くしゃみや咳、空中に飛んだ唾など)、クラスター(集団感染)、アウトブレイクパンデミックなどのことばが躍り出てきた。ソンタグの「哲学」は時分の花で、深さが足りず、「人間」の本質まで届いていない。ほかの著作にもそれを感じる。隠喩の終わり? それは、いかなる事態を指し示しているのだろう?