現象の奥へ

『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』──三島由紀夫という「現代思想」(★★★★★)

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』(豊島圭介監督、2020年)

三島由紀夫は「当時」、ノーベル賞をうんぬんされる世界的作家(実際、カワバタではなく、彼が取るべきだった)であるのだが、全共闘が突然電話をかけてきて、討論をやりたいといい、快く引き受け、1000人の「敵」が、招いたにもかかわらず、会場(東大の900番教室)の入り口には、三島をゴリラに見立てた絵のある看板、そのほか、とうてい「おとな」とは思えぬ態度にもかかわらず、一人一人の言っていることを誠実に聞き、ていねいな言葉で応答している。これは、完全に三島の勝ちなのである。ただ、三島は、ほんとうに右翼だったのだろうか? 彼の言葉を聞いていると、逆説に逆説が重ねられているようにも思う。
 小林秀雄の講演をCDで聞いていて、聴講の学生が質問する。「先生は、天皇についてどう思いますか?」「なに? 天皇? きみは天皇を身近に感じる?」「いいえ」「だったら、身近に感じるものの話をしなさい。そんな自分が身近に感じられないものの話をしたってなんの意味もない」
 しかし、三島由紀夫は、学習院を首席で出た時、昭和天皇から直に金時計をもらっている。昭和天皇は彼にとっては身近な人だったに違いない。それと、観念としての天皇とか、天皇制うんぬんを付き合わせてみてもしかたがない。今では、吉田裕著『昭和天皇』によって、昭和天皇は、自分の意志をもって統治していたことが明らかにされている。そして、「そこ」へ行き着くまでは、政府=軍部という「権力」が存在していた。戦後はその「構造」が見えなくなった。それは「安保」という陰の存在のせいでもある。その点を、「全共闘」のオボッチャマ集団は、「革命」などという夢を見て「暴れた」のである。
 三島は三島で、昭和天皇への憧憬を、思想にまでもっていく。問題はその作り方で、三島は世界文学の教養があったから、自然、「現代思想」にならざるを得なかった。それで、「ぼくの大っ嫌いなサルトルの『存在と無』にこんな言葉がある──」なことを言う。ちゃんと読んでいるのである。彼は彼なりに、サルトルを超えようとしていた。そして、自衛隊への突っ込みも、「クーデターの要求」は表向きで、実は「テロ」だった──。彼以外の日本人のすべては右も左も、思想的には近代を迎えられず、三島のみが、構造主義のあたりに来ていた──。誰も理解してくれず、たった一人で楯の会というミニチュア軍隊を作り、「革命」を「演じよう」とした。結果はわかっていた。
 本作でTBSが録画していた、全共闘との討論は、自衛隊に突っ込む一年半前である。あのもの柔らかで清々しい表情からは、いかなる決意も窺われない。そして本編は、最後の「事件」はごくあっさりと伝えている。しかし、私は新聞が伝えた、生首が転がっている写真をいまだに覚えている。その生首こそが、「モノ」であり、全共闘の学生たちは、ついぞモノをつかむ前に、言葉(観念)の前に生き延び、普通のジジイになっていったようだ。そういう事実を、まざまざと見せてくれるドキュメンタリーである。
 それにしても、この討論には、女性の存在は皆無である。まあ、マッチョ集団とも言える集団ではある。