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【昔のレビューをもう一度】『ミッドナイトスワン』 ★祝!「日本アカデミー賞主演男優賞」

【昔のレビューをもう一度】『ミッドナイトスワン』

★祝!「日本アカデミー賞主演男優賞」

『ミッドナイトスワン』(内田英治監督、2020年)──「草薙剛の「引き」の演技がすばらしい」(2020年10月2日)(★★★★★)

 労働者の息子がバレエを習い始め才能に開花し、反対していた父親も最後は応援してくれ、ニューヨークシティバレエだったかのプリンシパルにまでなる映画、『リトルダンサー』を思わせる。なぜなら、本作は、ただ単に、トランスジェンダーの男性と、育児放棄されていた中学生の少女が心を通わせるだけ物語ではないからだ。広島から、親戚のお兄さんに預かられるべく東京新宿に出てきた中学生の少女は、笑うことも言葉をしゃべることもなく固い表情でたたずむだけのでくの坊のような少女だが、親戚のお兄さんは、俗に言う「オカマ」(実は映画では、トランスジェンダーなる言葉は一度も出てこない)で、「オカマ」バーだかキャバレーだかで働いていた。そこでは、白いチュチュを付けた男たちの、「白鳥の湖」の中の、有名な四羽の白鳥だったかのバレエのショーがあり、それは、アメリカに実際にある男のバレエ団のパクりで、そのバレエ団の男たちは、笑わせることが目的ながら、バレエ的技術は本格的である。この「オカマ」バーでは、そこまで本格的ではないが、それを、この少女は目に留め、関心を持つ。幼い頃、少しバレエを習ったことがあるようである。物語はこうして、バレエを縦糸に進む。
 男性の肉体を持っていることに違和を感じる、草薙剛演じる「なぎさ」は、病気を持っていて、それは死に至る病を思わせる。生きる希望もなく、だらだらと日を送っていたのだったが、彼の母親の頼みで、養育費も送ってくれるというので、少女を預かることになるのだが、しだいに少女は、バレエの才能を開花させていく。まず近所のバレエの先生が目を留め、都内のコンクールに出場することになり、さらには、ニューヨークに留学するまでになるのである。その間の、なぎさの心の揺れ動きは、ほんとうの母性に目覚めていくまでの過程なのであるが、そのあたり、「オカマ」としてのエグさはあまり出さず、変な言い方だが、自然体に演じており、また、性転換手術までするのであるが、演技は「引き」の演技で、少女に花を持たせている。この少女役の俳優、名前は、服部樹咲というのだが、本来はバレリーナであるのではないか、ぐらいに最後のバレエは本格的である。それから考えるに、前半の田舎の中学生がバレエのまねごとをしている場面もリアリティがあって、「新人」ながら存在感がすばらしい。
 草薙剛は、ジャニーズ事務所出身の俳優のなかでは、本格的な俳優であると思う。さらに、田舎に帰った際に出てくるなぎさの母親を、根岸季衣が演じておる、まー、見事な田舎のバッチャマで、これまた感心したのだった。

 

【詩】「L'innommable(名づけ得ぬもの)」

「L'innommable(名づけ得ぬもの)」

 

ここはどこ? わたしはだれ? いまなんじ? なんじとなんじは、いまなんじ? けっこんしきとか、しんぷとか、かとりっくとかをとわずに、今日、海……協会、もとい、教会でおこったできごと。それはてろてろ……どこぞの銃器店でかった、新品の銃をたずさえて、ぬあんちゃって。それをテロとよび、てろてろな脳みそのにんしきぶそくのアイヌ差別。被征服民族がいつも差別される。なりわい。しかし、それさえいまは問わないでおかう。たしかにいまは、ウルサイ。ひとびとのめが監視している。差別語を言わないか。あらゆる言語は差別語であるという考えがある。それはそのとおりなのだ。差別しなければ人は生きていけない。要は社会コードにあるかどうかだ。まだなかったら、差別してもバレない。そういうことだ。すべてすててゆき、よれよれの老人となること。それ以外、最高の死に方があるか。どのようにピカピカだったか、忘れてしまった老人が横たわる棺の、その暗さ、それはMRIのなかと考えることもできる。むしろ宇宙の広さの方が怖い。その恐怖に晒されるよりひとはむしろ棺桶の狭さを選ぶ。そう選択の問題。ひょっとしたら私は、まだ生まれてないのかもしれない。こうしてやっと細胞になったのを、生まれたのと勘違いしているのかもしれない。思い出もないのに、なにか思い出しているつもりになっているのかもしれない。その思い出のなかに時間は流れているのか。時間は存在しているのか。その時間のなかに空間は存在しているのか。自問なのか自問でないのか。いったい自分は存在するのか。その自分の意識はどこからやってくるのか。やってくる。ほんとうにやってくるのか。もしやってこなかったらどうするのか。はたしてどうする。する、のか。するとしたら、しないこととの違いは存在するのか。ローマなのか関ヶ原なのか。東電なのか長野県のダムの底なのか。なぜ広大な森をもつ皇居に、電子力発電所を作らないのか。それほど安全なら。廃炉に四十年かかるとして、その四十年のうちに、あの津波よりもっとすごい津波はやってこないと想定できるのか。すべて時間の問題のように見える地球の問題。では宇宙には問題は存在しないのか。そう私はあそこで、ええと、儀式が行われる場所で、豊作を祈る儀式が行われる場所で、寝ずの番をしていた、ことを思い出す。その寒い夜は、お池で飼われていた鴨のお雑炊がでる。そりゃあ、おいしい野生の鴨ですわ。え? 飼われていたのに野生? そう野生の鴨が棲みついたんです。です? 敬語? 誰かに語りかけている? そう撮影にきたスピルバーグに。こんど「大河」に、徳川家康やります。主演は、アメリカ……じゃなかった、アイルランド国籍の俳優を起用します。だいじょうぶですか? アイルランド人なんか? 大丈夫です。彼は、アメリカ初代大統領、ジョー・バイデンもりっぱに演じました。え? ジョー・バイデン……って、初代じゃないでしょう? いまの……。いま? いまはいつ? 1776年です。ほら! 初代じゃないか! 独立したんだよ、アメリカ合衆国は。ほら、原住民から土地を略奪。そのように書いてますよ、ハワード・ジンは。そのひとだれ? アメリカの歴史学者だよ。ええと、私は棺桶のなかにいて、その俳優の名前が思い出せない。もうだめだな。七十歳雇用法ができても、遅い。私はここまで、隠居老人として生きてこなければならない。六十七、八歳のばばあにいいように扱われて。そのばばあは、まだ自分が魅力的と、どこかで信じ込んでいるふしがある。あーめん。って、あ、祈られるのは私か(笑)。そんな夢を見た。分析者には絶対触らせない私だけの夢だ。他人の夢を勝手に分析するなど、人権侵害だ。私は断固として抗議する。そう、そのだれもいない夢のなかに、鷹が飛んでいる。いましも、獲物を捕ろうとして──。

 

かくして、ベケットは、詩と小説の領界を飛翔する。

 

...ça va être le silence, là  où je suis, je ne sais pas, il faut continuer, je ne peux pas continuer, je vais continuer.

 

(……それは沈黙になるだろう、私がいるここ、わからない、続けなければ、続けられない、続けるだろう。)



 

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【詩】「万葉集」

万葉集

 

「現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない」(T.S.エリオット『批評家の仕事』(1923年)、吉田健一訳)


「そして批評家の仕事も、本質的に秩序の問題であると考えられる」(同上)


万葉集」と呼ばれるテクストは、その成立に、聖書ほどではないにしても、400年の時間が流れている。(西暦)300年代から700年代までの時間はどれほどであったか──。


その奥義は、水戸家に伝わる。

契沖はそれを見て、主著『万葉代匠記』を作成したが、

それはおもに、出典作成の仕事であった、

と推定され、これより、「新注」と呼ばれる。

一方、万葉学者、伊藤博氏は、その一首一首を個別に注釈する方法に疑問を抱き、

いくつかの歌をまとめた「歌群」とし、

物語としての注釈を作り上げた。

もちろん訓詁は厳密である。

はたして、この態度は、

21世紀から見ると、どうか?

契沖の方が、よりニーチェ的、フーコー

ではないのか? そして

論語』が

285年に

日本に伝わったとするなら、

われらのご先祖がまず最初に読んだのは、

中国の書物であった。


學而時習之、不亦説乎。(学びて時に之(こ)れを習う、亦(ま)た説(よろこばし)からずや。)

 

 

【オンライン連載小説】「私のように美しい女、あるいは、いかにして私は火星人を愛するようになったか@2021」3

【オンライン連載小説】「私のように美しい女、あるいは、いかにして私は火星人を愛するようになったか@2021」3

 

 

あれから、いわゆる「コロナ禍」と呼ばれた時代は、誰もの期待に反して十年続いた。誰もの予想を超えて、全世界の人口の1/3が死んで、おまけに、「想定外」というか、まったく想定されないわけでもなかったが、核戦争が起こった。それも二度。最初の核戦争を、第一次核戦争といい、二番目のを第二次核戦争と言った。まあ、そんなこと、あたりまえというか、あたりまえでないというか。ゆえに、原発事故とか、そういうレベルのものではなくて、ことの始まりは、これは誰もの想定を大きく超えて、火星人が攻めてきたのであった。しかも、いきなり、核で攻撃してきたのである。したがって、地球は、すべてが核で汚染され、もうどこにも、まっさらな場所は残されていなかった。地面も海も。それでも、世界人口の「コロナ禍」で生き残った人々が、まだ1/3いたが、それも、核戦争で、1/1000000に減った。

 そんなとき、山下晴代は、まだ自宅にいて、寝たきり老人になっていた。すでに自分が何歳かはわからなくなっていたが、100歳にはなってないような気がした。神経痛に見舞われ、体がずきずきと痛んで、もういつ死んでもいい、防災なんかカンケーねー、津波でもなんでも来やがれ!と思っていた。いつかどこかで読んだ、あるいは、読んだような気がしただけかもしれないが、70歳を迎えて「女でありたい」という女主人公の小説を思い出した。作者と等身大の主人公のように思われたが、この「女でありたい」の「女」って、いったい、どういう思想のもとでの女なんだろうと思うに、男というものに、性的魅力をアピールできる存在とまあ、そういう思想というか、イデオロギーから来てるんだなと思った。老いさらばえた体に、ブルーとピンクのブラジャーをあてがって悦にいるシーンがあるが、まさに、色基地外(爆)。「いいかげんに枯れろよ!」と、山下はその作者=主人公に向かって言っていた。瀬戸内寂聴だって、あれで、適度に枯れているんだぜ、というか、あれほどの「修行」(経験値)がなければ、こういう小説は、ヤバい、それこそ、「墓穴革命」でないの? この小説の題名は「疼くひと」とついていたが、まさに山下こそ、(神経痛で)疼くひと、であった。そこで、山下は、万年床に入ったまま、iPad(初代。ゆえに、重い、ゆえに、顔の上に落としたら、顔面血だらけになる……(笑))で、メル・ギブソンの『リーサルウェポン』シリーズを見始めるのだった。

そして、「4」に達した時、山下は眠るように息絶えたのであった。おー、最高の死に方!トーマス・マンの「ヴェニスに死す」のアシェンバハに勝るとも劣らない死に方であるな。彼はヴェニスの海岸で執筆していて、愛する少年を見かけ、そこで何か語りかけようと、椅子から立ち上がったところで息絶えたのであった──。

to be continued !

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【【昔のレビューをもう一度】『Fukushima 50』

【昔のレビューをもう一度】『Fukushima 50 』(2019)

★この映画の結びで映し出されている名物の桜並木は、今(2021年)は枯れ果てているようです(NHKのドキュメンタリーで見た)。そして、つい最近も大きな地震があり、いまだに原発は稼働されていることがわかった。原発の核心部に入るためのセキュリティに関する重大な事件もあった。なぜ稼働しているかの理由の一つとして、賠償するための費用を稼ぐ必要があるからという。二酸化炭素排出問題にからめて、またふたたび、原発が台頭してくるという可能性は拭えない。

『Fukushima 50』(若松節朗監督)
2020年3月6日 23時53分

「現場!」

たとえば、アジア太平洋戦争(というのが、良識的な名称であるようだ)についての映画があったとして、それが「なぜ起こった」という点に焦点があてられた映画だったら、「私はその戦争を経験しました。でも、私たち庶民の大変さは全然描かれてなくて」という声があがるとしたら、それは、やはり、なにかズレているとしか言いようがない。
 本作は、福島第一原子力発電所が、「想定外」の津波によって、いかに「未曾有」の危機に瀕し、そのとき、現場にいた人々の決断と、努力によって、それが回避されたかを描いている。わりあいに、事実は単純なもので、「想定外」の10メートルの津波によって、発電所が水没し、電気が働かなくなり、炉を冷やすことができず、メルトダウンの危機に陥って、数機は爆発したということだ。それを、吉田所長(渡辺謙)が、電力会社や政府に反してまでも自分の考えで判断し、また、彼の部下、ある部署の長である佐藤浩市(彼もまた現場で独自の判断を迫られるが)以下、そこに働く50人(題名はここから来ている。海外メディアがそう呼んだそうである)の人々が、いかにがんばったかが描かれている。この映画の主眼はそこにある。つまり「現場」というものを熟知している人々の活躍を描き讃えたものだ。
 それゆえ、それらの人々をとりまく、首相、役人、東電の幹部等には個人名では呼ばれない。ただ役職名で登場するだけだ。一方、現場の人々は主なキャストは家族の内情なども細かく描かれている。この中に出てくる、当時の総理大臣の菅直人氏は、出るには出るが、怒鳴ってばかりいる。しかし、とりもなおさず現場に飛ぶ。ここが氏の偉い判断だったのだが、この事故は、自民党の安倍一派の権力奪取に利用され、菅氏は、ウソメールまで流された。しかし氏は、「同じような手」では報復しない。そして瞞されたメディアも加担し、民主党はある種の人々に、「バカ政権」と呼ばれる(当レビューにも存在するが)。しかし、ハリウッドのエンターテインメントではないのだから、誰かがヒーローになって解決する問題ではない。それが現実というものだ。当の菅氏は、ブログで、「あの通りだった」と書いている。実はそれを読んだから、本作を見る気になった。そして現場の人間だけが、「想定外」に対処できるのだ。そういう意味でも、本来は主役であるはずの吉田所長の渡辺謙が脇へ回り、もろに現場を担当する部署の責任者である、佐藤浩市が主役となっている。
 余談であるが、10メートルの津波が40年なかったことを「想定」とするなら、どんな準備があれば、原発は安全なのか? 線量の多い危険な建屋へいって、弁を開いて減圧するという仕事を二人ひと組でするのだが、この場合、こんにちでは、AIに任せられるのだろうか? いずれにしろ、なんらかの理由で事故となった場合、原子力の人間生活への影響の大きさは、ウィルスの比ではないだろう。この現場の人々の活躍がなかったら、福島原発は大爆発を起こし、放射能は、東京へも飛び散っていた。
 地味な物語ながら、俳優陣はかなり豪華なものとなっている。それら演技派たちが、この実質的なハナシをドラマたらしめている。