現象の奥へ

【エッセイ】「駆除」

【エッセイ】「駆除」

 昨日のニュースで、「富山県高岡高校に、熊が侵入したが無事駆除された」なる原稿が何度も読まれ、青色のシートに横たわる、いかにも一才くらいの小熊が、首筋あたりを赤く染めて、体を横たえている写真が同じように何度も映し出された。「さいわい生徒たちに怪我はなかった」。まず思ったのは、「駆除」という表現への違和感であり、熊のかわいらしい姿の哀れさである。校内の木に登っていたところを「警察が発見し」、地域の猟友会だかなんだかの人々によって射殺されたのである。熊を見たら殺せは、世界的に常識的な態度かどうかは知らない。私としては、麻酔銃で撃つべきだったのでは? しかし、その後、熊はどう保護する? さまざまな問題が、熊の居住地と人間の居住地が接近している狭い日本では考えられるがこのエッセイはそういった自然や住居に関することではない。ただ、「駆除」と、まるで、ゴキブリや蚊など、害虫(と扱われる)生き物に使われるような言葉が、かわいらしい姿(実際は獰猛かもしれないが)の熊に使われたことで、それは、私のなかでは、ナチがユダヤ人の殲滅のときに使ったとされる言葉とつながってしまった。すなわち、「害虫の駆除」として、殲滅収容所はあったという表現であるが、それが、どの本にあったかは、今思い出せない。それは、ハイデガーとナチズムに関係した論文にあったと思ったのだが。ついでにいえば、ベルクソンも、第一次世界大戦の時には、「大いに(ドイツ相手に)どんどん戦うべきだ」という一派の一人をなしていた。ナチズムほど酷いものではないかもしれないが、高尚な哲学者が、りっぱな倫理意識を持っているとはかぎらない。人がべつの命に対して、「駆除」なる言葉を使ったとき、正義や愛や倫理などという言葉はほとんど無意味である。

 

f:id:palaceatene:20210513014845j:plain