現象の奥へ

【詩】「ボードレールのために」

ボードレールのために」

坂本龍一にはそれほど関心がなかったけれど、
先日、氏が死に至るまでのドキュメンタリーをNHKで放送した。
食事の後片付けをしながら流していると、しだいに引き込まれた。
それは癌の末期、ほんとうに死との戦いを、克明に映しだし、
最後の、意識を失い、絶命するまでを描いているのだった。
プライバシーは微妙に避けつつ、癌の宣告、そのたびの進退、治療の選択、音との関係、音楽家、芸術家、知識人として、
美を保ちつつ生きる姿を、
おそらく、最初からNHKとの約束で、
映されることを受け入れている。
その間、日記を書き続け、はじめは、紙に書き付けていたものが、
しだいにスマートフォンのメモに変わっていく──。
その文字をカメラは映し出すが、ナレーターが読むのを飛ばしている行、言葉もある。たとえば、哲学者や詩人の名前、
ラカンマラルメボードレールなどの文字が眼に入った。
とりわけ、
ボードレール。そうか、
坂本龍一も気にしていたのか。
エリオットは、ボードレールは、詩より散文の方がいいと言った。
彼の詩が受け入れられるには、もっと時代が過ぎねばならない、と。
私は、長いこと、フランスの俳優ミシェル・ピコリがかすれた声で朗読する、
悪の華』を聴いていた。
AU LECTEUR 
La sottise, l'erreur, le péché, la lésine,
「読者へ」
へま、間違い、罪、けち、
Occupent nos espris et travaillent nos corps,
Et nous alimentons nos aimables remords,
Comme les mendiants nourrissent leur vermine.
われらの頭を占めそしてわれらの体を動かす、
そしてわれらは大好きなうわさ話を養う、
乞食がシラミを養うように。
ボードレールよ、ボードレール
いつも時代と人がズレている。
ニューヨークに、庭のあるような本宅を持つ超有名人は、
ついに、自分の一生を、みごとなパフォーマンスで終えた。
そのような人生であった。
無名の誰にもできることではなかった。だが、
それさえも、
あなたの文章よりみすぼらしい。