現象の奥へ

『フォードvsフェラーリ 』──二人の最高の俳優をとくとご賞味(★★★★★)

『フォードvsフェラーリ 』(ジェームズ・マンゴールド監督、2019年、原題『FORD V FERRARI/LE MANS '66』)

 本作は、車のブランドのどちらがすごいとか、そういうハナシではなく、勝ち目のないレースに勝ってバンザイの物語でもない。車を愛しすぎているピュアなケン・マイルズこと、クリスチャン・ベイルが、その純粋さを表現し、彼を見いだし、車の性質を知り抜いて、しかも深い思考もできる、元レーサーで、エンジニアの、キャロル・シェルビーことマット・デイモンの、友情といえば友情の物語である。
 対立はするものの、ともすれば激しやすいマイルズを誰よりも知り抜いているシェルビー。その心のひだを、マット・デイモンが、小さな表情やガムを噛む態度で表現しきっている。この二人の役者を見ていると、まったく俳優とは知的な職業であると思うが、残念ながら、わが日本には、そういう集中力を持つ俳優は皆無である。それが、私が邦画を見ない理由である。演技に対する考え方からしてまったく違う。日本はかなり遅れた俳優社会である。こんな俳優勢では、いかに奇をてらった題材を持ってこようがまともな作品はできない。実は、映画は(舞台もそうであるが)俳優で成り立っている。だから、欧米では俳優に高い出演料を払い、それが俳優の能力の保証になっている。俳優が違えば、同じストーリーでも作品はまったくべつのものになってしまう。マット・デイモンクリスチャン・ベイルは、その最高峰にある俳優たちである。彼らは、「スター」という言葉を嫌う。とくに、役柄によって太ったり痩せたりして、カメレオンそのもののようなクリスチャン・ベイルは、職人そのものであり、今回のエキセントリックな役どころは彼の真骨頂とも言える。治したとは思えない、ややクセのある犬歯の白い歯を見せて笑う、それが彼の魅力である。
 一方、マット・デイモンは、私が誰よりも買っている俳優だが、ベイルとは逆に肉体を誇示することなく、小さな表情で役柄の思考を見せる、主役でも引いた演技ができる役者だ。この二人が、メカの世界を、人間的なものに変えていく。たとえ物語がカタルシスを用意していても、それ以上の深みを見せてくれ、観る者を深い思考に誘う。60年代の話ではあるが、本作が表現しているのは「今」である。もちろん、レースの臨場感もすばらしい。