現象の奥へ

『英雄の証明』──差異を描き出すのも映画の手柄(★★★★★)

『英雄の証明』(アスガー・ファルディ監督、2021年、原題『GHAHREMAN/A HERO』

 

イランは映画大国で、キアロスタミをはじめ、作風は洗練されている。生活は欧米化されていて、社会もわりあい開かれている。しかし、細部で、やはり民主主義先進国の生活、社会に慣れている目からみると、違和感がある。そのひとつに、「たかが借金」で、犯罪者のように(事実犯罪者なのかもしれない)収監される。そしてこの、金貨の入ったバッグは誰のもの?という物語を見ていると、大げさというか、なんというか。だいたいそのバッグを警察に届けた時点で終わり、先進国なら物語にもならないが、それを本人が保管し、落とした人を探し、返す、というのが、この物語を複雑にしている。そして、収監されている人々に保釈金だかを寄付するという組織も、先進国にはないもので、警察の力がそれほど強くないのか、この不思議な物語に一役も二役も買っている。

 物語の時代は現代なので、当然、インターネットがあり、SNSがあり、人々の視線や意見も混じり合う。これがこの映画の環境として与えられている。

 よく考えたらそれだけの映画で、これが「英雄か(笑)、イランでは」と思うと、それは寝落ちの間に、大きな違和となって入り込む。

 てなてな不思議な映画で、家族で囲む食卓もテーブルではなく、絨毯の敷かれた床に皿などを置いて食べる。こういうのも、昔からの食習慣だろうが、妙な感じがする、欧米化民主主義の国に生きるわれわれである。

 しかし、そのような差異を認めるべきであり、その差異を「今の問題」とともに描き出すのは映画の手柄であろう。