現象の奥へ

【詩】「船旅」

「船旅」

「海は無数の剣であり、満ち足りた貧困である」
ボルヘスが書いたとき、
アシェンバハは船からすれ違うべつの船を見ていた。
豪華客船であり、甲板で船客たちが彼に向かって手を振っていた。
なかでも、派手な作りの男、顔を白塗りにして口紅を塗り、
笑っていた。四十がらみに見えたが、どうみても、
汚らしい七十過ぎの老人だった。笑った真っ赤な唇からむき出しになるのは、総入れ歯。
六十歳の誕生日であるアシェンバハは、ひたすら
汗をかいていた。自分が、あの少年には、あの若づくりの老人のように見えたらと。
海はハンカチのようにアシェンバハの頬に触れた。
海は追憶の許されぬ、女神たちの牢獄。壁。
オデュッセウスのようにたぶらかされ、さまよってみたかった。
海は知らぬあいだに空と入れ替わり
黄昏をわけあった。