現象の奥へ

ビクトル・エリセ『瞳をとじて』

ビクトル・エリセ瞳をとじて』──記憶とは動き続けるもの

92年の『マルメロの陽光』で、ビクトル・エリセは、脚本を作らず、最低限の設定で、画家がマルメロの木と向き合い、描いていく様子を撮った。このとき、画家との了解以外、プロデューサーも決まっておらずに撮り始めたという。途中で資金が尽き、ちゃんとしたカメラやフィルムも調達できず、友人からもらったベータカムでとり続け、ビデオも厭わないつもりだったという。その時の経験は、形式としての映画、物語さえも超えて、ただ「撮る」という行為を通して、時間と光景、現実のすべてを物語化することを体得したと思う。
今回の『瞳をとじて』は、それをさらに深めている。物語はあるが、ストーリーではない。ただ映画をめぐり、記憶へと遡っていく。ついに彼は、記憶とは、ただ脳裏に止まっているものではなく、絶えず時間とともに動いていくものであるということを「目に見える」形にして見せた。わけのわからない館、その主、その娘を探してくれと頼まれる探偵のような男。あたりはブルーグレーに霞んでいる。得体の知れないような中国人の召使い。その上海にいるという娘も中国人の血を引いている。それは、劇中映画の中の物語(ストーリー)であった。実は、行方不明は、娘の行方を捜すのを頼まれた探偵役の俳優の方であり……。主人公の映画監督は、その行方不昧の俳優の男(親友だった)を探すともなく探している──。その俳優には娘がおり……。撮っていた映画は上映されることもなく、映画監督の男も、人生を中断したかのような生活を送っている。テレビのドキュメンタリー番組をきっかけに、親友の俳優の跡をたどろうとする。記憶によって。偶然がかさなり、その友人の俳優が生きていることを知る。養護施設の住み込む労働者となっていた俳優の男は、記憶を失っていた。その男の記憶を蘇らせるために、廃館となった映画館で、上映が中断されたままの映画が上映される。冒頭の、奇怪な館の老人の話が始まる──。よく考えてみれべ、この映画では、人々の事情はなにも明かされていない。ただそれらしいことをほのめかすにすぎない。おそらく、人生というか、人間の生とはそんなものなのだろう。エリセは、ゴダールよりも鮮やかに、「Hélas! pour moi!」(仏語で、エラース、プル、モア「なんてこった!」。ゴダール監督、ジェラール・デュパルデュー主演『決別』の原題)と言ってみせる。ボルヘスの映画も2本考えたというが、「まだ」83歳なので、これからが楽しみである。映画とは何かを映画をもって教えてくれた本作のような作品に、お遊びの「星印」は、似合わないだろう。