現象の奥へ

【詩】「Merry Christmas, Mr. Lawrence」

(2023.12.6に発表したものの再掲載)
「Merry Christmas, Mr. Lawrence」

記憶のなかからよみがえってくる生の
 すなつぶ。
スペインの最北端の
海からつづく天然のいけす
のなかで泳いでいた何匹もの魚影、
それは「平家物語」に
フォーカスする
鱸(すずき)。いつか
平家物語」という詩集をつくろう。
もう映画館の時代は終わって
電気自動車とともに登場するは
アジャーニ。
Merry Christmas, Mr. Lawrence !
あのフィルムを探さねばならない。
アジャーニを追いかける探偵が
エスカレーターに乗りながら
片手で週刊誌を持って、
クロスワードパズルを解いていた。
Merry Christmas, Mr. Lawrence !


 

源氏物語─The sonnets15」
「蓬生(よもぎふ)、あるいは重力の涙」
 
宣長源氏物語年紀考』にて曰く、
この巻は常陸宮の姫君の事を始終(もはら)
 かける故に、始は源氏の君廿六歳、
須磨浦へ左遷の比より書出して、
(京に)帰給て後廿九歳の四月に此姫君を
とふらい給ふこと有て
狐の棲むほどに
荒れ果てた屋敷にて
末摘花は源氏を待っていた。
オッペンハイマーは捻れた時間のこちら側で
E=mc^2から莫大なエネルギーを放出できないものか考えていた。
 But if thou live, remember’d not to be,
Die single and thine image dies with thee.



『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)

オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)

 

ノーランの作品は、倒叙形式が新鮮だった、『メメント』をはじめ、『インソムニア』『ダークナイト』『インターステラー』『ダンケルク』など、ほとんど見ている。この監督は、映像的手法の天才スピルバーグとは違い、いかにも「オッペンハイマー」なのである(笑)。つまり、映像によって成立する作品に、文学的なものを持ち込んでいる。それが、乾いたエンターテインメントに、フレッシュな感覚をもたらした。本作は、オッペンハイマーの伝記を映画化したものであり、テレビのワイドショーで、「広島の現実が描かれていないのは残念だ」みたいなとんちんかんな感想が大手を振っているのには、首を傾けざるを得ない。俳優陣は、イギリスの大物俳優や、アメリカのすでにアカデミー賞受賞俳優を、これでもかというほど投入している。トルーマン大統領は、なんと、ゲーリー・オールドマンである。主役のオッペンハイマーを演じたアイリッシュキリアン・マーフィーを最初に見たのは性同一性障害の女装姿である。それから、骨太な闘士とか自在に変化する役をこなしてきたが、本作はさておき、次回にどんな役を演じるか、早くも楽しみである(笑)。

 まー、そういうわけで、真正面から兵器としての原爆や、その使用の倫理性を描いた作品ではない。だいたい、相対性理論も理解しないで、よー原爆とか言うわ。アインシュタインの発見が基礎になり、兵器としての原爆への道を開いた、つまりのオッペンハイマーが応用した。そこのところの微妙さは、それこそまったく描かれていなかった。

 広島長崎の悲劇について言うなら、軍部は降伏に傾いていたのに、「もっと戦え!」と「自らの意志で」言ったのは昭和天皇である。吉田裕著『昭和天皇』に書いてある。昭和天皇は、幼少時より、民は天皇のために死んであたりまえという教育をされて育った。こういう資料は、実は、日本の宮内庁には存在しない。すべて核心に触れるような文書はアメリカに公開されてある。その点で、こないだのNHKスペシャル『下山事件』は、アメリカまで出向いてよく取材していた。

再掲「誇り高き野良の肖像」

FB友さんと野良猫の話になり、この写真を思い出しました。私はこの猫に出会って、野良を尊敬するようになりました。自分で言うのもなんですが、なかなかよい写真です。「野良だと思ってバカにするな」と言っているかのようです。

「誇り高き野良の肖像」@福岡城(2019年6月)
 

 

【詩】「愛されるためにそこにいる」

「愛されるためにそこにいる」

男は父親と二人暮らし、
女は……覚えていない。
かなり忘れてしまったフランス映画だ。
地味なダンス教室で出会った。
どちらかの家に招待され
食事をした。ダンスの難しい部分についての話になった
テーブルに人差し指と中指を置いて、
スロースロー、クイッククイック、
みたいなことをフランス語で言い合う。
それだけのこと
おやすみなさい、今夜はごちそうさま。
どちらかが言って、帰って行く。
男の父親は病院に入院していたかもしれない。
かなりの頑固もので、男にやさしい言葉などかけたことがない。
だめ。
今更恋だなんて。
と、二人とも思う。
二人とも、あきらめていた……
男の父が死に、父の部屋の荷物を整理していた時、
戸棚から、男が少年の時優勝したサッカーかなんかの
トロフィーを見つけた。
父は大事にしていた。
スロースロー、クイッククイック。
二人は気づき、走り寄って抱き合う。
人生はその
トロフィーのようなもの。
愛されるためにそこにいる。

マラルメ、あるいは潮風」

 

「併し我々を詩から遠ざけているのは浪漫主義だけでなくて、もともとこれが退屈を紛らす手段であるならば、その原因になった生きることに対する退屈そのものの問題もあり、生きているということに就て迷うのと、生きるのをやめるのはそう違ってはいない。そしてここでは、生きていることと詩は同じものを指すのである。自分が自分であることに就て疑いを持たず、寧ろそのことに驚きを感じている充実した人間が発する言葉が詩である時、迷いはこの流れを乱して、人間は詩のみならず、この充実した状態からも遠ざかる。パスカルは詩を書かなかった。(略)マラルメの「潮風」という詩は、言葉だけで出来ている」(吉田健一『文学概論』)

 

La chair est triste, hélas! Et j’ai lu tous les livres.

(肉体は哀しい、なんてこった!私はすべての本を読んだ。)

 

松並木が続く、弁天島の砂浜をどこまでもあるいた。

山下家は遠州の山奥からこの弁天島に引っ越してきた。

ゆえに父の実家はこの地となった。

そこには、明石山脈の裾野、大井川と天竜川が分かれるあたりの山地に位置する、

遠州にはなかった

潮風が絶えず吹きつけている。

Hélas(エラース)!

まさにこの言葉が、山下家のイメージである。

三代前は猿だった。

祖父松太郎、曾祖父こうたろう……猿(笑)。

それがどーした、茶摘みじゃないか。

 

Fuir! Là-bas fuir! Je sens que des oiseaux sont ivres.

(逃げろ! あっちへ逃げろ! 鳥たちは酔っているのを感じる。)

 

浜に落ちているのは醜いウミウシ

記憶に混じるざらざらの砂粒。

祭りの花火があがる。

 

D’être parmi l’écume inconnue et les cieux!

(見知らぬ泡と天のあいだにあること。)

 

Hélas(エラース)! なんてこった!

ここでマラルメに出会うとは