現象の奥へ

【詩】「ヴァレリー、あるいは地中海」

ヴァレリー、あるいは地中海」

「詩がそうして我々に語り掛けて、何かを我々に伝えるのは、一般に言葉を使う時の例に洩れない。それは今日でもそうであって、例えばディラン・トオマスがロンドンの空襲で焼け死んだ女の子を悼んで作った詩は、事実、その死を悲しんだから出来たのである。そしてヴァレリーが「海辺の墓地」を書くのに、その一行十音節の韻律が先ず頭に浮かんだということも、これに対する例外ではなくて、韻律だけでは詩が書けないから、ヴァレリーはさらに探して海という題材を得た。これは、言葉でしかない文学というものの典型が詩であることを妨げなくて、語るのに言葉があり、それも含めて言葉が全く言葉である状態に置かれた時に、これが詩になる。」(吉田健一『文学概論』)

19**年、大韓航空撃墜事件の翌年の同月同日の9月1日、
その大韓航空機で夢にまで見たフランスはパリに渡った。
友人が実家のある南部まで連れていってくれた。
そこで突如、地中海に触れることになった。
すでにバカンスの終わった海岸は閑散として、
海は、まだ夏の終わりなのに身を切るほど冷たかった。
その冷たさ、
それは意外であり、
現実であった──。

「海辺の墓地」(LE CIMETIÈRE MARIN)の139行目

Le vent se lève !...il faut tenter de vivre!

なる行に出会い、これは堀辰雄風立ちぬ』のエピグラムではないか!
堀は、「風立ちぬ、いざ生きめやも!」
と訳していた。

風が舞い上がった!…… 生きることを試みなければ!

そしてそこから、
ダ・ヴィンチホメロス
立ち上がった。
ヴァレリーは地中海の子だね」
と、河上徹太郎は言っていた。

生きることを試みなければ!




 

アドルノ『プリズメン──文化批判と社会』

テオドール・W・アドルノ『プリズメン─文化批判と社会』(渡辺祐邦・三原弟平訳、ちくま学芸文庫

有名な、
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という文章は、本書の「文化批判と社会」というエッセイのなかに含まれている。独立したアフォリズム(のように扱われているが)ではない。アドルノは、アフォリズムのような、今流通している「現代詩」のようにお手軽な行為から最も遠い哲学者であり、事実本エッセイ(この形式をアドルノは選んでおり、それは、日本人が考える「身辺雑記」を含むような安易な形式とは大違いである)は、そういった「形式」や「文化行為」を批判している。それらは、ヘーゲルの体系哲学の「末端」に位置し、究極的には、体系的哲学を批判するのを目指したこのエッセイも難解なものである。ちなみに、ベルグソンは、自分の哲学に忙しく、ヘーゲルなど読んでいる暇はなかった(笑)。
 「アウシュヴィッツ」の箇所を引くと、

非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。応手ヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、今それは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。

 その「詩」を意識的に物象化し、ひとつの世界を築き上げた人物に、いま、「詩壇」(というものがあれば)の基礎を作り上げた、某社の某氏がいる。このひとのお別れの会に出席したらしい友人曰く、氏は、「現代詩界は、ジャーナリズムである」と言っていたそうである。さもありなん。ネット社会となり、「詩」はますます、頭にとっても行為にとっても、お手軽なものとなっていく。それが商品として流通しうるかは、ともかくとして、人寄せパンダ的なものにはなるかもしれない。……てなてなわけで、どーするアドルノ? いまの世界があなたが生きた時代よりますます……ブラックホール化している。私は知らない(笑)。

 

 

『ブルターニュの光と風』展@豊橋市美術館

ブルターニュの光と風』展@豊橋市美術館

おもに19世紀のブルターニュ出身の画家たちの作品を集めた。なかの「有名人」は、ゴーギャンタヒチに経つ前に一時滞在していた。ブルターニュは、地味ながら、それなりの画家たちのメッカだったようだ。荒々しいブルターニュの海岸や、海のなか、嵐、人々の生活が描かれているが、うっとりするような景色はない。常に岩、嵐、厳しい漁生活との戦いだったように見える。ろくな絵の具もなく、技法もいまいち。これは私の勝手な感想であり、絵画史上の事実は知らない。印象的な色は、土色、テラコッタ……私はこの色が嫌いだ(笑)。イタリアとの激しい落差。あー、もう一度、フィレンツェに行きたい! なんてことを思わせる、貧しく、田舎の、絵画でした。しかし、これも人間の通ってきた道。この美術展じたいは、整理されかつ充実していた。ひとつの時代のひとつの土地の、生(なま)の生活を表現していた。あ、ゴーギャンの作品は、A4ぐらいの(笑)、鉛筆画でした。私にも画けると思ったのは、驕りでしょうか(爆)。

 

★★★

なお、この美術館には、三沢厚彦氏の動物たちがおられました。

 

 

 





 

けふのNY TIMES WEEKLY, 2024. 3.10

けふのNY TIMES WEEKLY, Sunday March 10,2024
朝日新聞がデータをプリントして配達しているので、ほぼリアルタイム)
【一面TOP】@ボゴタ、コロンビア。アニー・コレアル記者。

「コロンビアは移民危機に直面している」
「数千人のアフリカ人が、アメリカへ贅沢ルート使ってやってきている。しかし道中には障害がある」
アメリカへ、記録的な移民が流入しているが、アメリカ南部の国境だけが唯一の道ではない。アフリカから4800キロの道のりを、10000ドルもかけてやってきている。南米のさざまな街を経由し、やっとの思いで「普通の移民」としてアメリカはニューヨークを目指す。途中国警備員に捕まったりする。NYに到着しても裁判がある。膨大な金と時間、苦難は、悪夢以外のなにものでもない。あるアフリカ移民は、「二度としたくない」ほどの悪夢後遺症になっている。とか。




アドルノ『文学ノート』

TH.W.アドルノ『文学ノート』(三光長治他訳、イザラ書房)

「おのれ自身を理解していない思想だけが、本物である」

アウシュヴィッツのあとで、詩を書くのは野蛮である」

 『ミニマ・モラリア』に見られる有名なフレーズである。小林秀雄は、柳田国男のような、わけのわからない「仕事」を擁護した。それは科学ではない。科学というのは、イデオロギーだ。と言った。アドルノもまた難解な著作の森に分け入り、それを擁護しつづける。とりわけドイツでは不人気と書いている、エッセーという「形式」で。いま、この、ほとんどイデオロギーを思想、正義と勘違いし、侃々諤々、やりあっているマスコミ界、ネット界、「詩壇」(そういうものがあるとして)をアドルノが見たら、あるいは、独裁者たちが人の命など意にも介さずおのれの信じる世界制覇の欲望のために、日々、アウシュヴィッツに匹敵する野蛮が行われている世界を見たら、おそらく気が狂うであろう。われわれは、そういう時代、世界を生きている。いまいちど、自分の感じたことを正直に記述する態度を取り戻すべきだ。美辞麗句、おべっか、見栄、は、もう見たくない。






ユルゲン・ハーバーマス『事実性と妥当性』

ユルゲン・ハーバーマス『事実性と妥当性』(河上倫逸・耳野健二訳、未来社刊)

ハーバーマスの主著の第三期に位置する本書をなぜか亡霊の中から呼び戻し、このネット社会の混沌というより、さらにエントロピー化の進んだ世界で、どのように正しく思考すればいいのか。今は、誰も教えてくれない。この日本においてさえ、本居宣長のように、山桜を愛でながら、人間の生について思考しておればよいという牧歌的夢も、さらに遠い牧歌と化している。
 ホッブスマルクスアリストテレスヘーゲル、カント……みんな呼び出して、哲学的なものと、社会学的なものを両立させねばならない。分析などという手法がなんの役に立つのか。
 連日テレビでは、芸能人の行為に対する、恣意的でたらめな「法」を、おもちゃのように振り回している。「専門家」でさえ、でたらめをまくしたてているのを見る時、ふと、「法治国家」なる言葉が頭をよぎった。
 件のNATO北大西洋条約機構)についても、遠い用語であったものが、「事実性と妥当性」の現実となって、われわれの前に現れている。はたして、そのようなものであったか。「法治国家」であることは、民主主義が当たり前のように実現されていなければならない。しかし、世界において、それはますます後退していく。こんな世界を、ハーバーマスは想像しただろうか?