現象の奥へ

アドルノ『プリズメン──文化批判と社会』

テオドール・W・アドルノ『プリズメン─文化批判と社会』(渡辺祐邦・三原弟平訳、ちくま学芸文庫

有名な、
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という文章は、本書の「文化批判と社会」というエッセイのなかに含まれている。独立したアフォリズム(のように扱われているが)ではない。アドルノは、アフォリズムのような、今流通している「現代詩」のようにお手軽な行為から最も遠い哲学者であり、事実本エッセイ(この形式をアドルノは選んでおり、それは、日本人が考える「身辺雑記」を含むような安易な形式とは大違いである)は、そういった「形式」や「文化行為」を批判している。それらは、ヘーゲルの体系哲学の「末端」に位置し、究極的には、体系的哲学を批判するのを目指したこのエッセイも難解なものである。ちなみに、ベルグソンは、自分の哲学に忙しく、ヘーゲルなど読んでいる暇はなかった(笑)。
 「アウシュヴィッツ」の箇所を引くと、

非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。応手ヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、今それは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。

 その「詩」を意識的に物象化し、ひとつの世界を築き上げた人物に、いま、「詩壇」(というものがあれば)の基礎を作り上げた、某社の某氏がいる。このひとのお別れの会に出席したらしい友人曰く、氏は、「現代詩界は、ジャーナリズムである」と言っていたそうである。さもありなん。ネット社会となり、「詩」はますます、頭にとっても行為にとっても、お手軽なものとなっていく。それが商品として流通しうるかは、ともかくとして、人寄せパンダ的なものにはなるかもしれない。……てなてなわけで、どーするアドルノ? いまの世界があなたが生きた時代よりますます……ブラックホール化している。私は知らない(笑)。