現象の奥へ

『グレース・オブ・ゴッド 告発の時 』──「物語」をからくも回避(★★★★★)

『グレース・オブ・ゴッド』(フランソワ・オゾン監督、2019年、原題『GRACE A DIEU/BY THE GRACE OF GOD』)

 20年以上前、日本人でバチカンに留学し、神父のエリート街道にある人を、人に紹介され、食事を数回するうち、いろいろ話を聞いたことがある。カトリックの神父は、神父になるにあたって、生涯独身の誓いをする。プロテスタントの牧師のように、妻帯は許されていない。その神父も、「女」以外はなんでもやっているようだった(笑)。しかも、なにか「女性」に飢えている感も見て取れた。そういう環境において欲望なるものが屈折していけば、自然、「手近な」弱き者に向けられていくのもある意味想像できる。というのも、この映画のもととなった、フランスはリヨンの教区だけでなく、本場イタリアでも、噂のようなものは聞いたことがあるような気がする。カトリックは、こういうものを抱え込みながら、長い歴史を保っているのである──。
 この映画の事件は、もともとは、そうしたカトリックの環境が、遠因となっていると言えないこともない。が、それは、べつの問題であり、オゾン監督は、そこまで問うてはいない。というより、彼の視点は少しべつのところにある。カタルシスを伴う「物語」になってしまいがちな「できごと」を、なるべくそれを回避して、神父による児童虐待の被害者の、三人の男性を中心に、主役、脇役の構造に配置することなく、三者三様の「その後の人生」をていねいに描き出す。そして、彼らが、いかに、ペドフィル(幼児愛好者)の神父を、「刑事事件」として告発にまで持って行くかを、これまたていねいに描いている。一番最初に登場し、刑事告発を決心する、アレキサンドルが主役と言えば主役なのだろうが、二番目に登場して、被害者の会を立ち上げる男性も、三番目に登場し、心の傷から立ち直れず苦しむ男性も、彼らの周囲の家族や人間関係も、おざなりにすますことなく描いていく。それはまるで、途中で主役が交代してしまったのか? と思えるほどの均等さである。しかし、やがて三人は合流し、刑事告訴(時効でない年齢は、後者二人である)まで戦い抜く。
 原題は『Grace à Dieu(神のおかげで)』。この言葉は、神父の事件を隠し続けた枢機卿が、記者会見の時に、ある記者の質問に答えて言う。「神のおかげで隠し通せた」みたいなことを口走ってしまう。そして、記者が「え? いま、神のおかげでって、言いませんでした?」「失言でした」みたいなことを答える枢機卿。この人も、刑事罰に問われる。
 そして、なにが解決したのか? 少なくとも、「被害者」の心は、少し軽くなったに違いない。……てなてな話である。カタルシスはない。

 「映画をことばで言い表すことはできない」(フェデリコ・フェリーニ