現象の奥へ

最果タヒ『夜景座生まれ』──文脈不在の文章=詩(笑)(★)

最果タヒ『夜景座生まれ』(2020.11.25、新潮社刊)

以前の詩集『恋人たちはせーので光る』で、(生年月日や学歴は出しても(笑))顔出ししない著者について、男性である可能性について示唆しておいたが、最新刊の本詩集では、一人称の多くが「ぼく」と使われていて、これはこれで、その昔、女子高生のあいだで流行った(私も使っていたりした(笑)名乗り方であってみれば、それは却って女らしいとも言える。
発行する出版社は、リトルモアから新潮社に移っても、ネオンカラーの装丁といい、本文の、活字の種類も組み方も、一冊の本でありながら、さまざまな種類を用いている(ほかの人々がマネしたりしているのを見かけるが(笑))のも、これまでと変わらず、これは、伊坂幸太郎などの作家もやっている、出版社が変わっても、著者らしい装丁は変えず、の、スター作家ならではのものなのか? 昨日発売にも関わらず、詩集でAmazonのベストセラー一位あるが、詩集などというマーケットがカンケイない書籍などは、本人はもとより親戚や知人が一〇冊くらい買えば、ベスト点入りも可能であろう。それより、どれだけの数のレビューがついたかの方が、売れ行きとだいたい平行しており、なかには「やらせ」もあろうが、まー、100レビューもつかないと、売れているとは言えないかもしれない。

さて、本書であるが(笑)、相も変わらずの文体である。こういう「結局、なにも言ってない言葉の羅列」に感動することができる人々は、どんな精神構造のひとなのだろう? と、私などは思うだけだ。書かれた文章からは、著者の姿はまっく見えない。どんな本を読んでいるのかさえわからない。奇妙に、論理をひねっていくことだけは、わりあい得意と見える。聖書にも文脈というものは存在するが、最果タヒなる詩人の「詩」は、文脈不在である文章を詩と言っているかのようだ。いったいいつまで、「ベストセラー詩人」であり続けるのかな? 

当然(系統的読書の習慣のない)若者に向けて書かれているのであろうし、若者のなかには、こうした感性に同調できる人もあるだろう。しかし、ジジイが同調するのはみっともないからやめといた方がいいよ(笑)。



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