現象の奥へ

ポール・ド・マン著『読むことのアレゴリー』

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』(土田知則訳、2022年12月、講談社学術文庫。もとの本は2012年岩波書店)──著者は「脱構築」を理解していない

 フランスで「現代思想」(というジャンルで括っているのは日本だけとか)がはやり(はやっていたのも、日本だけ、とか)、フランス語系が得意でない(?)書き手の間で、この「思想家」がモテはやされた時期がある。そしていつしか、神さまのようになっていた、ような……。事実、Amazonレビュアーにも「よくぞ出してくれた」などというのがあった。
 やたら「アレゴリー」とかつけると、なにか中身があるもののように見える(笑)。アレゴリーとは、比喩のことである。その比喩が、どのような使われた方をしているかによって、いくつかの種類に分かれるのだろう。だが、言語学的に厳密な定義のあるものではないようだ、よくは知らないが。
はっきり言って、ベルギー出身の著者が、アメリカにわたり、おフランスの「現代思想」家のまねごとをしているだけである。
 脱構築などとほざいてみても、このヒトは脱構築を理解していない。
本家おフランスの思想家たちは、近代を近代たらしめるべく登場してきた、ベルクソンフロイトレヴィ・ストロース、ローマン・ヤコブソン。そしてそうとは知らず大きな基礎を開いたソシュールの、どれかの人々の深い研究から自己の世界へと潜り込んでいる。つまり、体系的な知からの脱却である。こういうものを基礎としないで、いきなり、ルソー、プルーストときている。そういう著述を、いきなり「アレゴリー的読解」といってみても意味ないのである。
 それをまあ、日本人の著述家たちがありがたがちゃって。という「記憶」しか思い浮かばない。ちなみに、川村二郎のベンヤミン論も『アレゴリーの織物』であった。なんだ、そりゃ? である。詩のタイトルを比喩で説明しているヒトをたまに見かけるが、それが詩作品なんですかね? 吉田健一は、たった一語の地名でも詩になりうると言っている。オマケですが(笑)。