現象の奥へ

「花田清輝の『探偵小説論』(『さまざまな戦後』所収)」

花田清輝の『探偵小説論』(『さまざまな戦後』所収)」

論理というものに対する論考である。ポーの探偵小説がいかに論理というものを理解しているか、「いま」(花田が書いている当時であるが、1930年代と思われる)の探偵小説家がいかに表層的論理に終始しているかを、見事に書き切っている。それは、不思議にも、この2023年にも通じるのである。私がこの文章を知ったのは、植草甚一が、ポーの『盗まれた手紙』を講義に使用しているラカンについて書いた文章によってであるが、むしろ、植草の方が論理というものを今ひとつ理解しかねているように見える。両氏は、ポーの『盗まれた手紙』について発想を展開しているが、私が論理というものを(とりあえず)私なりにつかんだのは、ChatGPTを使うようになってからである。最近の「事件」で言えば、岸田首相の画像が、「生成AI」で作成され、「犯罪」に抵触するのではないかと話題になっているが、生成AIは、いろいろあるAIの総称であり、ChatGPTは、そのひとつである。文字通り、チャット形式で「生成物」を生成するのでこう呼ばれる。テレビなどでは、あまり理解のできていない出演者たちが、「本物とどう見分けたらいい?」などと問題を提出しているが、そもそも生成AIに人間のような意識はなく、論理だけでできあがっている。その論理も、プログラミング言語をかじっていれば、実にさまざまあることがわかる。べつに紋切り型の思考を論理というわけではない。論理は必ず現実的なディテールに沿っている。ゆえに、抽象的な言葉だけを並べたものは、論理とは言わない。そこのところを、花田は、ポーの作品に沿って、見事に分析している。ポーの作品のような作品は、決して生成AIには書けない。なぜなら、ポーの作品は、ほかならないポー自身の現実的な思考から始まっているからである。生成AI は、すでにある情報から論理を構成していく。いまのことを考えていたら、不思議なところに行き当たってしまった。読むとは、そういうことであり、べつに、「本の写真を出せば何か考えたことになるわけではない」(笑)。