現象の奥へ

林達夫の「歌舞伎劇に関するある考察」

林達夫の「歌舞伎劇に関するある考察」(1918年初出、四百字詰め約66枚)

NHK大河の『どうする家康』は、NHKが総力をかけて制作しているらしく、見るにたる細部を備えているので、続けて見ている。家康は、「いくさなき世」を目指して、事実徳川時代は300年続いた。歴史モノも、その時代時代によって、人物の解釈が違っている。これまで家康は、「狸おやじ」のイメージで、若い俳優は演じなかったと思う。むしろ、信長の激しさや、秀吉の成り上がろうとする意志に焦点が当たっていた。いまの時代、部下を引き立て、部下を信頼し、おのれの弱さを認め、戦乱のない世の中を目指していく(あくまでNHKが表出している)家康型の人間が、よい人物のように解釈されている。
 「いくさのない世」、それは歴史的にはどのように実現されたか。身分の固定化、外国へ眼を向けることの禁止。人々は一生を同じ身分で過ごす。徹底した管理である。その仕組みを家康は作った。人々は成り上がる夢も、新しい世界を覗こうとする楽しさも奪われていた。そして、では、どこに眼を向けさせていたかといえば、享楽的なもの、刹那的快楽。いきあたりばったりのおもしろおかしいもの。そのひとつに歌舞伎があった。物語はご都合主義、やたらと人を殺したり、自害したりする。人生の真実は何も描かれていない。表面的に美しく眼を引けばそれでいい。歌舞伎から、きらびやかな衣装や、おどろおどろしい隈取り、官能的な音楽を取れば、いったい何が残るか? それで甘いお菓子のように歌舞伎はひとの欲情を惹きつけ、中毒にさえする。現に、それにハマって騒いでいる年増をネット上でも見かける。自分は日本の古典の通ぶろうとしている。それはハマるだろう。ひとの欲情を惹きつけるもので成り立っているのだから。その事実を精緻に、西洋哲学的に分析したのが本論考である。歌舞伎に、建設的なテーマはなにもない。この論文が書かれたのは百年前、林は、ある危機を感じて訴えている。世の中の人がこうしたものに眼を向け中毒にさせられたら、知の世界はどうなる? 倫理はどうなる? 林自身も歌舞伎をかなり見ながら、なくなるべきだとしている。
 しかしどうだ。百年後のいま、その歌舞伎は、商品としてしたてあげられ、一定の客を確保している。某芸能事務所も、某音楽学校も似たようなものである。それらには、ものものしい犯罪がつきまとっている。こんな「罠」が待ち構えていたとは、さすがの林も想像しなかったかもしれない。