現象の奥へ

「台湾」

「台湾」

台湾とはなにか?
それは、埴谷雄高の幼少時の朝から泳いだ森林に囲まれた谷川を持つ、
地球のどこかである。
観光的な視点も政治的な視点も、
ない。無垢な原風景を蔵する「場所」。
そこには、戦いも殺戮もなく、なにもない。
高橋和巳を鎮魂する埴谷の、
その二人を鎮魂する大江健三郎
テクストとなり得ている
「場所」。
日本の「詩人」さんたちとやらは、
おめでたくも大急ぎで、
どこかの国の重要な政治家が訪問したとかで、
資料を漁っている爆笑の「場所」。

 

「夏のテクスト」

「夏のテクスト」

宇宙は偶然のなかから生まれたなら、あらゆる
テクストはテクストクリティークを、たとえ無意識でも、
含んでいなければならず、
古今集のなかに柿本人麿の歌が七首混入されている
ことに留意しなければならず、
わがやどの池の藤波咲きにけり山ほととぎすいつか来鳴かむ
「この」時代を一時的災禍と思えど、
ひとびとの「待つ」時代は二度と帰らず。
うたの藤とは、自生の藤であり、
すでにここに人間は消失し、
SDGSみたいなわけのわからない
ウィルスがはびこっている。
地球となづけられた星に自転があり、
「夏」は来ている。それは水。

 

「中原中也」

中原中也

NHKの朝ドラで、差別的な母親が息子の結婚を反対している。
相手が大学を出ていない、家柄が悪い……とかなんとか、ありきたりのいちゃもんをつけて。
その母、鈴木保奈美が演じているが、中原中也を愛読している。
一方息子も、心優しき恋人に諭され、母の心を知ろうと、
中原中也を読み出した。
恋人は、シェフを目指していて、中原中也など知らない。
地方自治体が賞を作り、山口県中原中也賞を作った。
選考の「お世話」はどこかの出版社。
そんなことはどうでもよく、記念館のある湯田温泉
この賞ができる前から知っていた。小倉に住んでいた頃、
文化センターのダンスのコースに、そこから通っていた人がいた。
かなりの婆さんなのに、熱心で、山口県湯田温泉に自らの教室も開いていた。が、あるとき、レオタードを着たまま倒れ、お亡くなりになった。
ゆやーん、ゆよーん、ゆやゆよん

 

『キャメラを止めるな!』──勘違い!(★)

キャメラを止めるな!』(ミシェル・アザナヴィシウス監督、2022年、原題COUPEZ !/FINAL CUT)

 

メイク先のもとになった映画は、確かに「予想に反して」大ヒットしたが、それは、観客が、素人映画だとたかをくくって見始めて、だんだん凄い展開になっていって、それが、まあ、「今のニーズ」にあっていたからだ。

 フランス人には、もともと、こういう「はちゃめちゃ」要素があったので、気に入ってその気になったのだろうが、エンタメ映画のすれっからしの(日本の観客)には、こういうのはすでにして「見慣れた」風景であり、とくに、すでにして、プロの俳優が、すでにして存在してしまった物語を演じたのでは、オリジナルの「よさ」はなにも持っていない。素人っぽさを突き詰めたところにオリジナルの得がたさがあったのだ。

 ゆえに、日仏全員勘違い。

 しかし、あのもと芸人の(公称)147センチのプロデューサー役の日仏共通のオバチャンだけが、唯一光っていた。あのヒトは使える!


「アフロディーテーを待ちながら」

アフロディーテーを待ちながら」

百億光年の光のなかから、
すべての愛、
のようなものを否定して、
帰って来いアフロディーテー、
最愛の女。
その都市にはすでに名前はなく、
男の名前もついぞおまえの記憶から消えた。
ある星のエネルギーのように、
まだ解明されていないDNAの
最後の記号を読み解き、
恋人を産むために
肉体を分解する嫉妬に打ち勝ち
さあ、ここに。
ヴィーナスの髑髏を踏みつけて。


「固有名」

「固有名」

 

「人物の名を語ること、それは顔を表現することである。ありとあらゆる名詞や常套句の只中にあって、固有名は意味の解体に抵抗し、私たちの発語を支えてくれるのではないだろうか」(エマニュエル・レヴィナス

そこで積み重なる日々は習慣というやさしい状況を与えてくれるだろうか?
それでも与えられるものの方が多いだろうか?
地位とか記憶とか、
未練とか不快とか、
土に紛れた泥とか、

匂いに紛れた痛みとか、
恋人とか構造とか、
すべてかたちを失って、
抵抗だけが意志として残されるとき、
アインシュタインとか、
ブリューゲルとか、
内藤さととか、
彼方から落葉のように
降ってくるもの、