現象の奥へ

【短編を読む】「大岡昇平『俘虜記』」

【短編を読む】「大岡昇平『俘虜記』」(初出『文学界』昭和23年2月号。四百字詰め換算約96枚)

本作は、のちに連作長編として一冊の書物となる第一章、「捉まるまで」の部分であるが、最初は、昭和23年に『文学界』に短編の形で発表された。単体の短編と連作のひとつの章としての短編では文学的構えが変わってくる。しかし、当方は、連作長編としては読んでないのでなにかいう権利を有していない。当方のテーマは「短編を読む」ことである。大岡昇平の全作品を後世に残されたかたちで評価することではないことを前もっていっておきます。なにより短編の形をさぐり勉強することに趣旨があることをお含みおきください。
 本作は、短編としていっきに読んでこそ内容の重みがある。作中を流れる時間も、せいぜいが数日のものである。章分けしてしまうと、密度が緩み、哲学的な深さが物語の方に傾いてしまう。本作は作者が体験した劇的な経験であるが、連作長編の一部として読めば、ただのひとこまとして、短編の密度は弱まる気がする──。

 いま、われわれも「戦争」を「見ている」。連日、テレビが、ミサイルなどが撃ち込まれる街路や、逃げ惑う人々を、「戦争反対!」などと口だけで叫んで、この「戦争ショー」を観戦し、自分だけは傷つかないことに安堵している。そして、攻撃した側の元首を「悪者」にしたてて納得している。こうした戦争の「ショー化」は湾岸戦争より始まったと思う。
 昭和19年、フィリピンの島に兵士として送られた作者は、国家が一般人民に与える暴力に、人間としてぎりぎりまで苦しみ、その状況を、深く記述し、思考する。その記述である。やがて、「運よく」米軍の俘虜となり、生き延び、ここの発表された作品を書く。大げさな観念的なことは一切書いてない。ただ一瞬一瞬、見たこと感じたことを正直に書いていく。しかし、それは、やがて深い哲学の内容を帯びていく。小説というか創作とは、そういうことであり、先に定義があるわけではない。その点、「詩と何か?」とか、偉そうに抽象的な印象批評を並べ、批評家然としているヤカラが散見されるのは、まことに恥ずかしいというか、あきれたことである。