現象の奥へ

三木清の「シェストフ的不安について」

三木清の「シェストフ的不安について」

シェストフの『悲劇の哲学』を古本屋で求めて長い間積ん読状態だったが、三木清の文芸批評集の目次を見ていて、シェストフという名前があったので、やっと積ん読状態から救い出した。この本は、高一の時演劇部の顧問だった黒川先生が教えてくれたものと思っていた。しかし翻訳書の発行の日付を見ると、1976年初版で、高校時代よりかなり後になっている。はて、誰の勧めであったか。おそらく、拙作を文芸誌に載せてくれて、その後も作家指南をし続けてくれた編集者ではないだろうか。三木清の評論が書かれたのが1934年で、世界がきな臭くなりつつある頃である。この文章は、小林秀雄の思想に重なる。小林はある講演で、「科学というものはイデオロギーだ」言っているが、三木もシェストフの思想を語りながら、同じようなことを言っている。不安、とは、曖昧なもの、世界の割れ目のようなもののことである。そういった「はっきりしないもの」に、果たして哲学は存在するか? というテーゼをたてながら、いや、それこそが哲学であり、あるべきであるとしている。あまりにシェストフと三木が重なって、どっちがどうだかわからなくなるが、結局このロシア語の評論家は、曖昧なものこそリアルなものである、としている。しかもその曖昧さは、悲劇的なもののなかにある。たとえば、戦争である。いま、多くのひとは、戦争というものをくっきりとした状況として捉えている。しかし、そういったものは、個々人の不安、ぼんやりとした世界の裂け目のように存在しているのではないか。小林秀雄でいえば、柳田国男の仕事を説明する、科学なんてものとは正反対のもの、魂のようなもの、とすることである。私の書いていることは浅薄な類推であるかもしれない。しかしそれもまた、哲学への入り口であるように思う。