現象の奥へ

【詩】「船旅」

「船旅」

「海は無数の剣であり、満ち足りた貧困である」
ボルヘスが書いたとき、
アシェンバハは船からすれ違うべつの船を見ていた。
豪華客船であり、甲板で船客たちが彼に向かって手を振っていた。
なかでも、派手な作りの男、顔を白塗りにして口紅を塗り、
笑っていた。四十がらみに見えたが、どうみても、
汚らしい七十過ぎの老人だった。笑った真っ赤な唇からむき出しになるのは、総入れ歯。
六十歳の誕生日であるアシェンバハは、ひたすら
汗をかいていた。自分が、あの少年には、あの若づくりの老人のように見えたらと。
海はハンカチのようにアシェンバハの頬に触れた。
海は追憶の許されぬ、女神たちの牢獄。壁。
オデュッセウスのようにたぶらかされ、さまよってみたかった。
海は知らぬあいだに空と入れ替わり
黄昏をわけあった。

 

【誰でも知っているが、ネットで恥をかいているアナタのためのカブキのレキシ】

【誰でも知っているが、ネットで恥をかいているアナタのためのカブキのレキシ】

歌舞伎の芸は、親が名優で、家が名門でなければ、「奥義」のようなものは伝授されず、役も、いい役が取れない。三歳ぐらいから、「花伝書」のような、訓練をしなければならい。その点、歌舞伎の家出身でない、養子の、愛之助玉三郎は、サラブレッドとして堂々主役を張るわけにはいかない。「鎌倉殿」の板東彌十郎は、歌舞伎の家出身ながら、スーパー歌舞伎市川猿之助系の弟子で、主に海外で活躍していた。テレビドラマなどの人気者として売り出し、歌舞伎初心者のミーハー目当てに、歌舞伎に呼び込もうとしている。初めて歌舞伎を見た初心者は、ハマり、高額の金を使いまくっているのは、公営ギャンブルのようで、笑える。玉三郎仁左衛門カップルの演技ヲ見たが、玉三郎は、オヤマとしては、背が高すぎる。そして、いま「売り出す」には、ジジイすぎる(笑)。私が歌舞伎役者として、一番評価するのは、かつての菊五郎。白浪五人男のお嬢の役である、国立劇場で、堂々とマツケンサンバを踊った。とちりもなんのその。しらっとしてその場の演技で乗り切る。しかし、日本のシェークスピア近松門左衛門の登場によって、役者たちの色気は人形に負けることになる。

 

「源氏物語」

源氏物語

この時代、紙は貴重なり。ゆえにパトロンがいる。パトロンは、「教え子」中宮彰子の父、藤原道長なり。
全巻中、雲隠という章は題名のみ。
はて。雲隠の章は紛失す。宣長だったか。それ以前の章は後より付け足された章なり。ゆへに、雲隠の章から始まれり?
宣長考へり、もののあはれ、とは。
もの(現実)への思ひ。
ミシェル・フーコーの、言葉(思ひ)ともの(現実)と重なるところあり。
よのなか、「もの」なくして、詩心存在せず。
ゆへに、われは、ある日、道長が、わが部屋より、
書きかけの原稿を勝手に、持ち出したことを許すまじ。
「日記」に記しておくなり。
わが「物語」はそこにあり。
そして、花の色は、紫ではなく、
オミナエシの、黄色なり。

 

「トーマス・ベルンハルト、絶望だけが人生だ」

「トーマス・ベルンハルト、絶望だけが人生だ」

さて、絶望の描き方は、誰に教わる?
純化してもまだしたりないキリスト教徒サミュエル・ベケット
豪華絢爛なキリスト教徒ダンテ・アリギエーリ?
(そう。ダンテはファーストネームなんだ)
このオーストリアの世界的な詩人にして小説家のトーマス・ベルンハルト、
(どうせ日本の「詩人」のなかで、知っている人は少ないだろうが)
は、死が絶望に負けないための唯一の手段だと考える。
誰が殺したのか? どーやって殺したのか? 殺された人間の性格は?
気持ち悪い写真を見て、
ボキャ貧の頭からしぼりだした凡庸な言葉で、
アレゴリーのようなものを組み立てる、
円環の迷路を回っている詩人を見るほどの絶望はない。
そしてやがて、見えないものを、見ていると思い込んでいる。
その香水は古くなって久しい。

 

菅直人氏が今年二度目のブログ更新

【ブログ2022/8/31】

 

菅直人氏が、今年二度目のブログ更新。菅氏は、安倍に最高に妨害された人々の一人である。長期に渡り、継続的に反原発活動をしている「アクティヴィスト」である。

https://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-12761709964.html




「愚かな薔薇」

「愚かな薔薇」

夢の奥で待ち構えている夢。そいつに、つかまるな!
あなたから昼を洗い流す、
暗い水の底に消えろ!
無が与えてくれる死を憩わず、
淫らな驚異を笑い尽くせ!
さようならデミトーリアス、誰だったか、もう忘れたけど。
王妃が葡萄酒色の裳裾で
王の噂話をするとき、はて、
どちらの王なのか。
新しいのか古いのか。
迷宮に魅せられた女、その名は。
夢魔』というボルヘスの詩は、
「この愚かな薔薇は、なぜわたしの奥で芽吹くのか」
という行で終わっている。

 

「貫之」

「貫之」

つらゆきといふ名が風になつたり
もみぢになつたり、ひゆになつたり、
をとば山の梢になつたり、
して、時間としてわたしの内部にとけるとき、
じさつしゃがやってきて、
じつとみつめてくれる
なまえはべるんはると
おーすとりあのだいしじんなり。
しかし、かれは闇にすんでいる。
深い、ねむりのなかに
かれの物語はてんかいする。
わたしは馬上でつらゆきに抱かれて
その読めない物語を読もうとする。
つきすすめ! ベルンハルト!