現象の奥へ

「花」

「花」

幼いころ、私は恐れた。真夜中に花は私を
じっと見つめているのではないかと。あるいは、
走り回って、げらげら笑っているのではないか。それでずっと起きていて、
ある真夜中、花の中をのぞき込んだ。案の定、
そのなかからじっとこちらを見ている顔があった。
それは今度団十郎になるという海老蔵の顔であった。
たしかに、彼には「花」がある。
私はまた恐れた、彼はほんものの花になってしまうのではないかと。
ひとは妄想を越境するときにだけ、他者を理解する。
花という淫らな結節点を通して。
その根っこに、先代の海老蔵がいて、四谷怪談は四十七士の裏狂言
仇討ちから外れた男が見た妄想なのだと、
笑っている。そんなことも知らないお馬鹿な不倫カップルが、
同じ目に遭うのではないかと人ごとながら、花を見るたび恐れている。



 

「明日は帰ろう本能寺」

「明日は帰ろう本能寺」

フロイスの日本史によれば、焼け跡から
白い骨が見つかったそうである。
ときはさつきのまさに、
名残の句が用意されようとしていたとき、
まさに、土岐(とき)一族が
その時代、法華経の寺ではしばしば、
処刑が行われたと書かれている。
キリシタンだけでなく、百姓、貧しき母子、赤ん坊さえも。
そういう世界を支配していたのは、
信長。そう、それでも、われらは、本能寺へと帰ろう。
今の本能寺とは、少し離れた場所にあった。
祀られているのは、
太閤秀吉。
スタバニテマツ。


 

「秋」

「秋」

日本では、「詩」といえば、明治時代まで、漢詩のことであった。
詩人の方々がよく口にする「現代詩」というのは、出版社が創ったものである。
そんな形式、ジャンルが通用するのは日本だけである。
今信じられている「詩」は「近代詩」のことで、イギリスからフランスを通過して輸入された。
それらに詳しい人々が、大家として尊重されている。
それが日本の詩の世界である。
よく研究しもしないで、信じ込んだことよ。
日本ではそういう人々のことを詩人と自称、他称してきている。
秋来ぬと目にはさやかに
見えねども風の音にぞおどかれぬる
たかが風に驚くこの大げさな歌には、漢詩=詩が混じっている。
それは、その驚きの動作、さやか、はっきりと。
万葉なら、「わだ背子がかざしの萩に置く露を清(さや)かに見よと月は照るらし」


 

舗道

「舗道」

思い出せないボードレールの一行があり、
朗読するミシェル・ピコリのしゃがれた声があり、
彼が通り過ぎていく舗道がある。
その下にはどんな革命が眠っていたのか。
ピコリの声はすでにすべてを諦めているような。
二度と訪れぬ街があり、
その街には思わせぶりな幾多の橋があり、
おお、かつては夢だったものが、
二度と読まれることのない
詩となって、わたしの限界を
誕生のときから祝している。
恋よ、散れ、ピコリの息の絶望の長さのように。
おお、向こうからやってくるのは、
ドストエフスキーという名のボードレールとは同年で、
異国の小説家ではないか。

 

【詩】「驟雨」

「驟雨」

出会った時、すでに背負いきれないほどの苦悩を背負っていたふたり、
小林秀雄は書く。それは、
ドストエフスキーの『永遠の良人』の登場人物についてであるが、
これが、トルストイなら、もっと長々と事情を書くだろうと。
潔い構成。いかにも「現代的」であるが、ドストエフスキートルストイより七歳上である。
ウラジーミル・ナボコフは、ロシア散文小説家の一番はトルストイであると評価する。
ドストエフスキーは五番以内にも入らない。
それは、ロシア的美意識と、日本的美意識の違いかも知れない。
私は日本語が母語なので、
ついドストエフスキーを身近に感じ、
物語の邂逅に雨を降らせる。
それは驟雨でなければならない。
白く、暗く、激しく、悲しい。
しかし、救済がある。



 

「サミュエル・ベケットが書くプルースト論」

「サミュエル・ベケットが書くプルースト論」

プルーストの『失われた時を求めては』は、モンクリーフの英訳で、4000ページ、150万語から成る。
これをベケットは仏語と英語で、数回読み通し、
小冊子で100ページ足らずの評論を書いた。

方程式を探るために、「双頭の怪物」時間の。
「構造の足場」がどこで発見されるか。
みずから、時と言葉に、がんじがらめになりながら。

排除されるものは、ありきたりのプルーストの用語、

伝説化されている文学論。

なんのために?

意志的な記憶がなんの意味もなさず、

無意味さのなかの

懐かしさに触れるために。

考えろ! 考えるのだ!

おのれの脳に命令するために。

 

『L.A.コールドケース』──やっとアメリカも「地味」の意味を知るに至った(★★★★★)

『L.A.コールドケース』(ブラッド・ファーマン監督、2018年、原題『CITY OF LIES』)

 

 ジョニー・デップは存在自体が派手で、どこにいても、どんな役をやっても目立つ。4年前に完成した映画だが、公開は今年となっている。動きも、展開も地味であり、解決のカタルシスもない。ラップスターの殺害は珍しいものでないと言えるかもしれないが、二人となるとハナシが違ってくる。なんのための殺害か? 動機はなにか? 正直いって、オハナシが見えない。ただ、元刑事のデップが刑事をやめてからも追いかける。それほどの熱血漢には見えないが、とにかく追っている。定年の年齢であるが、年金がもらえる二年前にやめた。やり手のジャーナリストもその事件を掘り出すべく動く。こちらは目立ちたがり屋。それを、エキセントリックなホレスト・ウィテカーが演じる。やがてこの二人の人生が絡み合いながら浮き出る。デップの地味な誠実さに、ウィテカーが惹かれていく。

 結局、なにもわからない。得てして人生とは、社会とは、世間とは、そんなもの。アメリカも、やっと「地味」の意味を知るに至った。