現象の奥へ

【吉本隆明はフーコーに完全に論破されている】(「フーコーを読む」番外編)

吉本隆明フーコーに完全に論破されている】(「フーコーを読む」番外編)

フーコーが来日したおり、蓮實重彥の通訳で、吉本隆明と対談する機会があった。それが本になっているのが、『世界認識の方法』(1980年、中央公論社)である。
フランス語版の書物はなく、フーコーの、著書以外の文章、インタビューが収録されている「全集」に収録されている。吉本は外国語ができなくて、すべて翻訳で読んだうえで書いたという論文集『書物の解体学』に、その旨注意している。したがって、当然のことながら、マルクスの思想についても、思考範囲が狭い。その狭さで堂々と、主張しているので、読んでいる日本人としては恥ずかしくなる(笑)。

対談のタイトルは、
Méthologie pour la connaissance du monde : comment se débarrasser du marxisme

「世界認識の方法」という日本語版とだいたい対応している。しかし、se débarrasser、厄介払い、という表現の日本語は、吉本は「始末する」とさかんに連呼していて、このあたりが、いかにも日本の庶民丸出しで、(どこが悪いということだが(笑))私としては、気恥ずかしくなる。

Yoshimoto comment se débarrasser du marxisme?

吉本 あなたはどうやって、マルキシズムを始末したんです?

蓮實氏は、「始末」を、se débarrasser と仏訳している。これは、ただたんに、厄介な問題を追い払うというイメージで、始末というなにか日本の精神的なというか、死のような意識が入り込んでいるのとはちょっと違うような気がする。

それは、ま、いいとして、つまり、日本語のなかだけで考えてきた吉本氏が、世界思想のなかで、いかにマルクス主義から脱却するか、フーコーに問うているのだが、フーコーは、世界思想のなかでのマルクス主義をていねいに解説してみせる。

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どーでもいいが、詩人でも、日本語のなかだけで考えればいいんだという人は結構いる。しかしその多くは、「ぜったいそれでいくべきだ」という強い主張は持っていない。強い主張を持ってはばからないのは、コーヒーに砂糖をいれるかどうかが、ときとしてテーマの、M下I男氏などを思い出す。ここは「余談の余談」である。 

 

 

【詩】「メモリー」

「メモリー

人生でいちばん最初に飼った犬は近所で生まれたスピッツとおそらく雑種との混血で何匹か生まれたうちのその犬だけ、白い毛が短めだった。

わんわんウルサイのでベルと名づけた。
一年もたたないうちにジステンパにかかって死んだ。実際、ジステンパかどうか。とにかく死んだ。外で飼っていたので、凍えて死んだのかも。

六十年くらい前の庶民の家は犬は基本外飼いだった。私は小学三年だった。
それから何匹も、犬も猫も飼った。病気になっても医者に行くことはなかった。餌は残飯に味噌汁をかけたものだった。
猫も放し飼いなのでよく車にひかれた。
Catsの「原作」である『老オポッサムの実用猫の本』は、
T.S.エリオットのなかでも難解な作品だ。
それをもとに演出家のトレバー・ナンがミュージカルにしたのだが。
町中を「犬殺し」と呼ばれる野犬狩りのリヤカーが堂々とゆく時代だった。

ペット可のマンションに移った時からまた犬を飼い始めた。これまで死んだ犬たちへの鎮魂のために、大切にした。
固有名が重要であると、エリオットは言ってるそうな。かどじま、ごうじま、ぱんきー、ごどー、
遠州のお茶工場に流れるお茶の香り。
モリー

 

【フーコー『言葉と物』を読む3】Lire "Les mots et les choses" de Michel Foucault

フーコー『言葉と物』を読む3】Lire "Les mots et les choses" de Michel Foucault

(まだ「序文」(笑))フーコーボルヘスの『続異端審問』のなかで中国の百科事典に言及、動物の分類の常軌を逸した様子に爆笑した。なにがおかしいのか? まわりにいるような「普通の動物」から、現実には存在しないような動物など、「ありえない」分類のしかたをしている。ここで重要なのは、その不可能性ではなく、すべての不可能性を「つないでしまう」、a-b-c-d-……という序列の存在を示唆している。われわれはここから、通常なにげなく使っている「言葉」というものを疑ってみなければならない。それなくして、いかに「詩とはなにか」と探求してみても、それは無意味なことなのである。

Ce qui transgresse toute imagination, toute pensée possible, c'est simplement la série alphabétique (a,b,c,d
qui lie à toutes les autres chacune de ces catégories.


【詩】「ナチ」

「ナチ」

ナチが悪であることは誰もが知っている。

しかし、ナチは一種の思想集団であり、人物そのものではない。その「思想」が裁かれる。
どのような「思想」か。

それは、ハンナ・アーレントが、エルサレムで、元ナチの秘密警察の長であり、多くのユダヤ人を殲滅収容所に送り込んだアイヒマンの裁判を傍聴し、ニューヨーク・タイムズに傍聴記を書いたように、

「凡庸な人間でも罪を犯す」という言葉に表れるような「状況」でもない。

それは、そののちの、ニュルンベルク裁判で、新たに問われる概念、「人道に対する罪」を含む「思想」である。
いま、戦争が悪のように言われているが、
「人道に対する罪」は、人間を人間と思わない、武器を持ってすら戦いをしかけない。
ゴキブリを駆除するように、人間を「駆除」しようと考え、効率的に「駆除」する方法、殲滅収容所を発明した「思想」である。ゆえに、心の痛みも罪悪感もない。
東京裁判ニュルンベルク裁判がモデルであると言われる。
映画で見た、ヘッドフォンをつけた東条英機は、「死刑」と言われても表情ひとつ変えなかった。
人間という概念はやがて終わると、ミシェル・フーコーは書いている。

 

【詩】「受刑者の方々」

「受刑者の方々」

名古屋の刑務所で、22人の職員が3人の受刑者に対してくりかえし暴行を行っていた疑いがあると法相が明かしたニュース。
「受刑者の方々にはお詫び申し上げます」ということだった。
「受刑者」でも、「方々」である。
「受刑者」に対する暴力でも、罪になる。
22人の職員は、犯罪者となる。
ことばが、うわすべりしていく、
ただうつくしければいい、
受刑者なんて存在しない
「日本の詩人の方々」の頭のなかでは、
自分はなにものかなのだ、と思い込んでいる。
その、実体のないことばを、
消防車のホースで、
水を肛門に注がれ死んだ受刑者の方が受けた暴行のように
注いでやろう。
天井に取付(とりつく)蠅や冬籠 紫道




 

【詩】「アエネーイス」

アエネーイス

羊飼いの老人のように、半分眠りながら、この物語を読んでいる。
そのうち自分がアエネーイスであるような気がしてくる。
アマゾネスに助けられ、這々の体でトロイアを逃れた。
向かうはローマ。
だったかなー?
故郷は戦場。
なにもかも打ち壊されて、
Catch me if you can.
こどもたちのお決まりの遊び。
未来は真っ白。
すごい国を作るんです。
でも彼はまだ暖炉で居眠り、ふるい。ふるい、日本の句を。
火燵からおもへば遠し硯紙 沙明 
アエネーイス暖炉ではなく火燵かな。


 

【詩】「実朝」

「実朝」

「海は無数の剣」と、ボルヘスが書き始めたとき、
実朝はすでに死んでいた。
従兄弟だったかの僧侶に暗殺された。
36歳の柿澤勇人が演じる18歳の実朝。そして、
従兄弟の、坂口健太郎メンズノンノ演ずる北条泰時に、恋心を感じる。
柿澤の無垢なまなざし。そうしてボルヘスは、
「(海は)満ち足りた貧困である」と続ける。
雪の降る日のなんとか参りの帰りの石段で、
恨みをもって待ち伏せた、従兄弟の僧公暁(こうぎょう)に殺される。
万歳のゑぼしをはしる霰(あられ)かな 胡布
ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原 実朝
柿澤の無垢なまなざしに霰たばしり、悲惨な事件をかわいい恋文に変える。
「ごめんね」歌の意味がわからなかったの、きみからの。
「でも、今は、きみの名前でぼくを呼んで、実朝と」